成長とは何だろう。
 たとえばわたしがこの放置ブログをはじめたのは7年前のことだが、それからそれなりに長い年月が経ち、わたしは成長したのだろうか。

 滅多にないことだが、昨日は終電を乗り過ごすまで働いたあと、タクシーで帰らず、職場で始発までやり過ごし、帰った。

 オフィスの電気を落とし、PCのディスプレイだけを光源に、普段はしない書類整理などに勤しんでいるあいだ中、理由もなくずっと柴田聡子というひとの歌を聴いていた。「カープファンの子」という曲のなかの「あの子にこどもが産まれる前に、わたしにこどもができる前に、もっともっとひどいことを考えておかなくちゃ」という一節が頭に残った。今も残っている。柴田聡子のことを知ったのは、友人の姉が経営していた江古田のカフェでときおり開催している小さいライブで友人が柴田聡子を観て気に入りわたしにCDを貸してくれたのがきっかけであり、とは言えそれから特に彼女の情報を新しく仕入れるということもないのだが、何となくするすると耳に入ってくるので、よく聴いている(江古田のカフェは友人から何度か誘われたのだが足を運ぶこともなく、さいきん閉店してしまったそう)。

 始発の山手線はちらほら立つひとがいるほどには混んでおり、わたしの隣に座ったぶかぶかのパンツを履いた若者からはなぜだか断続的に大便および小便の臭いがし、わたしは不快な気持ちになる。若者はスマートフォンをずっといじっており、たまに肘がわたしの身体にあたる。向かいにはニッカポッカの男性が座っている。携帯で時間を確かめると4:44で、ああ4:44だとわたしは思う。
 向かいのとなりには女性が座り、舟を漕いでいる。わたしはあるいは彼女だったかもしれず、もしかするとニッカポッカ、悪くすれば大小便の臭いを漂わせる若者だったかもしれない。そうであったとしても、まったく差し支えがない。わたしの頭は意味もなくぐるぐる巡る。どうしてわたしは若者でなく、そのとなりに座っている疲れた風情の30女であり、始発の山手戦で小大便の臭いを嗅がなければいけないのか。どうして当人は自身の臭いに鈍感でいられるのだろう。どうして終電を逃すまで働かなければならないのか。どうしてヴァージニア・ウルフは入水したのか。どうして扉に閂は通されるのか。どうして猛毒のある動植物が存在するのか。もちろん、それらに理由はない。4:44という数字の羅列、あるいは柴田聡子を飽きるまで聴くことと変わりはない。柴田聡子をいまは繰り返し聴いているが、近いうちに飽きるだろう。そして思い出すこともあるまい。柴田聡子を。あらゆることを。思い出したときには違うものになっている、わたしの記憶は。電車は池袋を過ぎる。

 山手線が環状線であるように、わたしの記憶も、記憶を寄せ集め継ぎ合わせたわたしの人格も、おなじところを過ぎるだけ。一度目よりは二度目、二度目よりは三度目の方が分別や含蓄はあるが、その分、飽きている。それが四度目、五度目と反復を続ければ、もう何が何だか。年を経て、わたしは昔と比べて、ただ何だかよくわからなくなっただけ。断じて成長などしていない(ただ何だかよくわからなくなったことを成長と捉えるのなら、成長したのかもしれないが)。仕事もそれなりに長く続けていれば愛着も湧いてくるが、誰かに唆されたらいつでも背信行為を行うだろう。職業柄、国の機密を扱うことがあるのだが、それがあまりにもお粗末な内容ばかりで、自身の仕事に負担がかからなければ所構わず吹聴するだろうと思ったりする。それなのに、なぜ遅くまで働いたりするのか。理由など、何もない。

 話はただ拡散していく一方だが、『伝え方が9割』という本が電車内の広告スペースで宣伝されており、仮に伝え方が9割というのが本当だとすれば、わたしはほとんど何も伝えられていない。あなたもわたしも、おなじ駅、おなじ夜、おなじ感情を行き過ぎる。ここからここへ、少しも移動しておらず、いつでも出会っているふりをして、あと1割はどこかへ霧散してしまう。 だがその1割こそ! 1割こそ! と意気込んでみても、そもそも伝えるべきことがない。こんにちは、さようなら、おやすみなさい、それくらい。

 わたしは絶望していない。絶望するには何が何だかよくわからなくなってしまった。そのことは悲しいことなのか、喜ばしいことなのか、それもまた、よくわからなくなってしまった。家に帰って、窓際の観葉植物の水を換える。日に当てすぎたのだろう、全体に葉が日焼けし赤茶けており、一部の葉ばかりが床にとどくほど伸びている。わからなさの果てには何があるのだろう。おやすみなさい、昨日のわたし。おはよう、今日のわたし。そしてじきに、さようなら。
 どうでもいい話。弓子さんという陶芸教室の先生をしている女性と言葉を交わす機会があり、素敵な名前ですね、と言うと、祖父が想いを込めて付けてくれたのよ、と言うので、漫画家の大島弓子も弓子さんと同じ名前ですが、確かお祖父さんが名付け親だそうですね、偶然、と伝えた。
 自己紹介で弓子さんから名前の漢字を告げられたときから、わたしの大好きな大島弓子の名前が頭に浮かんでいて、彼女の年齢からいっても大島弓子のことは知っているだろうから、ちょうど良い話題だと思ったので。
 すると彼女は、ああ、そうなのよね、そうみたいね、とだけぎこちなく口にすると、唐突に話題を別のものに切り替えてしまった(それから場の話題は料理をはじめとする家事一般は男性の方が向いていると思う、という弓子さんの主張をめぐって、めいめいが勝手なことを述べ合うという、本質主義的な、わたしにとってはくだらなく感じられるものへ移っていった)。

 話としては、それだけのできごとなのだが、このことは何となくわたしの心にひっかかった。そして今でもひっかかっている。
 というのも、後から考えるに、弓子さんの名付けの話は、おそらく大島弓子のそれを拝借したように感じられたから。それを本人に確かめたわけではないので、全くわたしの思い込みなのだけれど、思い込んだらそうとしか思えなくなってしまい、実際それが事実だとしてもどうでもいいことなのに、そんなどうでもいいことが心にひっかかってしまう自身のみみっちさにうんざりしてしまうから。
 加えて、後から考えて、あの話は借り物なのではないか、と気が付いたときに、さぞかし大発見をしたかのように心が躍ってしまい、自分が弓子さんを値踏みするように見ていたこと、この一件(ともいえないできごと)によって彼女をディスカウントしていい気になっていたことを発見し、更にうんざりもっさりしてしまうから。

 そしてそれらをこうしてここに書き付けている理由は、わたしが自己分析をしっかり果たしているということを他人に示したいというナルシシズムと、他人にとって心底どうでもいいわたしの大発見を、この期に及んで誰かに話したいという、自分でもよく解らない表現欲求によるものである、当然。どうでもいい話。それにしても弓子というのは素敵な名前ですね。
 


 前回のつづき。

 さて目覚めると9時。サコたんの妹の爽子ちゃんが起き出してきて、リビングで仕事をしたそうだったので気力を振り絞り立ち上がる。洗面所の鏡のなかにひどい顔のひとがいる。誰だお前! 「 ~Woman, little sister, don’t shed no tears」。何となく「No Woman No Cry」が頭の中に流れる。
 サコたん家をあとにし、グンちゃんにどんな感じか教えてもらおうとメールすると、ほんとに狭くて大変、ゆっくり来てちょと連絡があったので、まだ時間も早いし、やってしまいました、山手線一周(正確には一周半)。なんて寝心地の悪いベッド! お尻が、とても痛くなって。

 ようやく12時過ぎに蒲田、大田区産業プラザPiO。前日の大雨のせいでやや厚着をしてきたので暑い。思えばこういう場所に来たのははじめて。確かに、すっぱい臭いがする。
 彼女たちのブースに行くと、ふたりとも明るい顔。知らないひとに同人誌が売れたという。すごーい。それからは、貝垣くんやグンちゃんの彼やスコブさんや、わたしも知っているひとたちがけっこう来てくれて目まぐるしく、たまに売り子もやったりして、そのときちょうどすごく苦手だった大学時代の知り合いのひとが挨拶に来てへどもどしたりして、いろいろ面白かった。

 何ていうか、ごくごく内輪のひとたちのみで欲望をやりとりして楽しがるこういったイベントは、実にさもしいものだとは思う。思うけれど、わたしみたいにふだんは文化的僻地でもっとずっとさもしい生活を送っている人間にとってみれば、さもしかろうが楽しい。楽しければ悪い気はしない、当然。でもさもしさにも(わたしの勝手な基準に照らせば)好ましいさもしさとそうでないさもしさがあって、文学フリマに参加することがどの程度のさもしさなのかは、ちょっとまだ解らない。
 ただ、今回は颯子さんがヘンシューチョーとして、怠惰でいいかげんなわたしたちの舵をとってくれ、それぞれのがんばりをどうにかかたちにしてくれて、そのことには心底敬服&感謝!

 そうそう、サコたんとグンちゃんからは、わたしの書いたものが気持ち悪いとダメを出される。ショック死。
 

 文学フリマに参加した。先週。前日にどうにか文学フリマ用の原稿をあげ、父の誕生日を祝うためにいつもは別々の場所に住んでいる両親とわたしの三人でワイングラスを傾けたら、睡眠不足と疲れがたたり、砂男に目潰しされたかのように眠くなってしまい、まずいなー明日会場に行けるかなーなんて思っていたらヘンシューチョーのサコたんから、印刷が終わらないので手伝いに来て欲しいと招集かかる。Sくんが先に来ており、じきにグンちゃんも登場するとのこと。〆切を大幅に遅れた手前断れず、大江戸線でサコたん家へ。電車を寝過ごして遅れる。着いたらサコたんから酒臭いと言われる。

 当日のAM00:00:00、まだ本は一冊もできていない。表紙が印刷されているだけ。大人物サコたんは焦ってるんだかいないんだか、ノーメイクでおでこをテカテカさせながら、眉根を寄せ難しい顔をしているが、特に手は動いていない。キャーヤバイ。ドタバタしながら手分けしてレイアウト変更したり元にもどしたり両面印刷したりホッチキス止めしたり袋詰めしたり絵を描いたり踊ったり吐いたりしているうちに夜は明け、どうにかはじめの一冊が完成したときの喜びといったら!

 それからわたしは体力の限界により、途中でリタイア。確か朝の7時くらい。文学フリマのブースが、ふたり座ったら満杯なので、サコたんとグンちゃんが先に向かい、わたしは昼過ぎから会場入りすることに。Sくんは開催地の蒲田に深い因縁があるとかで、先に帰った。お疲れ! と彼を送ったあと、サコたん家のリビングのソファーに倒れ込んで、一秒後には記憶を失った。グンちゃんの、わたしのろいから先にお風呂入っていいですか~というまったり声が聞こえたような気がする。確かに、とわたしは思い、7人の小人×7=49人の小人が大挙して押し寄せ何をするにつけのんびりやのグンちゃんの向こう脛を蹴り付ける夢を見る……

 続きはあとで。
 

 あちきも文学フリマに参加させてもらう予定なんですが、明後日なのにじぇんじぇんやばいのでさこたんにぶん殴られるかもしれません。そしたらGOMEN! そういえば長渕剛にも「女よ、GOMEN」という曲がありますね、あら奇遇、わたしとあなたはきっと深いところで繋がっているのね、さあ踊りませんか曲に合わせて。

「夢と暮らしのゴッタ返しの ざわめきの真ん中で
 俺には やっぱり お前しかいなかった

 女よ GOMEN GOMEN!
 女よ GOMEN GOMEN!」

 お前しかいないだなんて、嬉し、嬉し、嬉しくない! グンちゃんは自分のことをアナイス・ニン、ケイト・ブッシュ、レディー・ガガと称して恥じることがない! 生きていることはとめどない悲しみ!
 またあらためて、と書いたのにまたもや間が開いて、もうじきに納骨。書こうと思ったこともあらかた忘れてしまった。いつもそう。

 とはいっても、書こうと思ったことなんてそもそも大したことではなかった、あるいは、わたしが書く文章の未熟さのせいで、感傷や誇張から逃れることがかなわないのだとしたら、むしろ書かれない方がましだった。そうだ、叔父の亡骸を火葬場に送り出す前、めいめいが棺のまわりに集まって、思い思いに叔父に別れを告げていた。そのときに叔父の鼻の穴から、鼻毛がのぞいていたのだ。死化粧をほどこされていたにもかかわらず。わたしはそのことについて、誰にも話すことができなかったが、そのことを書くべきだっただろうか。だがこれもまた誇張に違いない。そうでなければ、悪趣味な感傷。またはその両方。というより、もう過ぎたこと。忘れてしまった。忘れてしまった。ららら。だれもかれも、死ぬべきだ。
 
 こんばんは。時間は尊いものですね、大嫌い、時間なんて。かたつむりのようでもこれからも時折更新はつづけていきますので、見捨てないでいただけたら幸いなのです。
 
 おはこんばんちわ、お久しい。

 特に目的なくネット上をうろついていたら、大学生の頃にかなり仲良くしていた男の子のブログを見付け(いままで行き当たらなかったのが不思議なほどに簡単に発見することができ、驚いたとともに、わたしの薄情さが身に沁みたのだったが)、最後に更新されてから半年以上経っているそのブログには、手の施しようがないほどに八方塞がりの自身の現状を前に、ひたすら苦しんでいる様子が独白の調子で綴られていて、読みながらほんとうに悲しくなってしまった。そのように感じるのはいろいろな意味でただしくないとは思うのだけれど、共感や同情の気持ちが噴きあがって、頻繁に交流していた時期の、彼の天真爛漫な笑顔や、独特のファッションセンス(靴下をマフラーにしていたことも……)、古くて汚い部屋(トイレは和式で、水を流すスイッチは天井から垂れる紐を引っ張るタイプのもので、遊びに行った際、何となくそこで用を足すことに抵抗を感じたわたしたち女性連中は、我慢をするかわざわざ近くのショッピングセンターまで出向くこともあった)のことなども同時に思い出され、思わずコメントを書き込んでしまいそうになったが、そんなことをしてもどうしようもないし、止した。

 それで、恥ずかしいことにわたしもまた、彼とまったく変わらない、実りも意欲もない、笑っちゃうほど不誠実な生をぼんやりと喰い潰している(つまり、彼への憐れみの感情はむしろ自分に向けられたものだったのだ)。彼を含めた、わたしのとりわけ仲良くしていた人たち。いまはほとんど会うこともなく、たまに共通の知り合いを介して消息を耳にするくらいだが、いまのところわたしを含めてひとりとして、自身の望む生活を手にできていないどころか、それに至るレールへも乗れていない。だったらそちらの適性がなかったのだとさっさと方向転換して、新しい生活をはじめればいいのに、それもできない。だからおそらく、彼/女らは人生を楽しめてもいないだろう。

 彼はブログでこう書く。「父や母は、何を思っているだろうか?/実家をで、孤独になるために東京に住んでいる僕を知ったら/何を思うだろうか?/ろくに稼ぎもせず、ただただ一人。/そんなことをさせるために僕を東京へ、いや、僕を育てたわけではないはず。〔……〕どこで間違えたのかなあ?」
 どこで間違えたのか。いささか自己憐憫が過ぎる文章において彼はそう問いながらも、実際はすでにその答を知っているだろうと思う。それは――(それが悪いことかどうかは置くとしても)怠惰だからだ。わたしも。それだけ。
 
・きょうび、軽井沢になんて行ってしまった。

・軽井沢にはなぜか多少の縁があって、いままでにも何度か訪れたことがあるのだが、あまり好きになれない。旧軽銀座とやらは原宿の竹下通りみたいにごちゃごちゃしているし、なのに歩いているひとたちには変なプライドがあるような、変な感じだし(信じてもらえないかもしれませんが、ドン小西のブランドを好んで身に付けるようなひとたちが、犬を連れてのそのそと歩いています。ほんと!)、たいしておしゃれでもなく味も美味しくない店が数多くならび、そのくせランチでも平気で¥2000くらいするし、ひとが多く道も異常に混んでいて交通の便は悪いし、全体的に西武グループあるいはバブル組の零落のさまがじんわりと街を覆っていて、よどんで爛れた空気が充満しているのに、なぜか駅前のアウトレットは若いひとたちで大繁盛だし。

・一緒に行った友人が観てみたいというので、ジョン・レノンや皇室も愛したという由緒正しきクラシックホテル、万平ホテルにも足を運んだのだけれど、客室やメインダイニングはともかく、ロビーちかくに雑然とものをひろげているみやげ屋や、ジョンの似顔絵を添えて「ジョン・レノンも愛したロイヤルミルクティー(¥750)」だとか書かれている黒板が入り口に置いてあるカフェテラスの感じははなはだ野暮ったく、そんな場所なのに混んでいて並ばなければいけないし、やはり好きになれない。

・偉そうに悪口ばかり書いてしまったけれど、裏道をたどれば雰囲気の良いカフェや教会もあるし、霧のおくに居をかまえる、苔むした別荘やペンションも素敵ではあるし、他の観光地にはないような洗練があるようにも思うし、全体はともかくとして、それぞれの部分で割り切って楽しむには悪くないのかもしれない。

・ろくに荷物の確認もせずに家を出たために、車中でかばんを開けてみれば、持ってきたはずのカーディガンがない。天気もぐずつき模様で上着なしで過ごすのは心細く、仕方なくアウトレットへ。旅先で大きな買い物をするのは苦手なので手早く済ませたかったのだけれど適当なものが見付からず焦り、友人たちとのかねあいというか見栄というか、そのあたりの微妙な空気に流され、ジョン・スメドレーのニットを買う。しかも二種類あったうちの派手な方を選んでしまう。似合わず。

・夜中に友人の別荘に着き、家のなかがだいぶ冷え込んでいたのと旅行の気分を盛り上げようとの思いからストーブに火を入れ、まわりを囲み、部屋の明かりを落とし、たけのこの里やプリングルスをつまみながらワインを飲む。中高生時代の恋愛話で盛り上っている友人たちの声を聞きながら、寝不足だったせいもあり、いつの間にか眠ってしまう。夜中に自分のいびきで目が覚める。

・セゾン現代美術館に行く。緑のなかにたたずむこの美術館は好きな場所なので、ちかくに行くことがあるたびに訪ねている。コレクションに格別惹かれるものがあるわけではないのだけれど、雰囲気がとても気に入っているので(同じような理由で、川村記念美術館も好き)。常設展示のなかに、マグダレーナ・アバカノヴィッチという女性作家の、「ワルシャワ―40体の背中」という作品があって、美術館の奥、照明を落とした部屋にひっそりとそれはある。建物自体にひとが少なくただでさえ静かなのに吸音室になっているらしいその部屋は不安なほどに森閑としていて、そこに40体におよぶ、背中だけの――ぬけがらのような――坐像が置かれているのだが、これはなかなか良い展示だと思う。その他にはロスコの「ナンバー7」、ポロックの「ナンバー9」、ティンゲリーの「地獄の首都」あたりが見所だろうか。それにしても、セゾン現代美術館ではバブルが崩壊してからこっち、おそらく経済的な問題だろうがコレクションの蒐集をほとんど止めてしまったようで、同時代の作家の作品はあまりなく、それにはやや物足りなさを覚えるかもしれない。

・車(日産マーチ)が濃霧のなかを走る。曲がりくねった山道は、数メートル先もかすんではっきりと見えない。道路灯のあかりだけが浮き上がって見える。運転している友人がたまらずヘッドライトをハイビームにすると、車のすぐ前のあたりでもやもやしている霧に光が反射して、かえって視界が悪くなってしまう。たまにすれちがう自動車と正面衝突しても何の不思議もないように思う。カーステレオからはわたしの嫌いなグループの曲がずっと流れていたから、正面衝突しても良かったんだと思う。でもしなくて良かった。

・美術館のチラシで指を切ってしまう。オレンジジュースを飲もうとしてしぼり器で指をすりむいてしまう。怪我はそのふたつ。おみやげはジャムを買う。旅行の収穫は特になし。全然楽しくなさそうに思われるかもしれませんが、楽しかったです。
 
 書きたいことがいろいろあるんだけれど、これから慌しくちょっくら小旅行。書きたいことが、帰ってからもまだ書きたいことであればいいな。にしてもあれどこ、カメラの充電器、ちょっとかわいめのババシャツ、ケースを開けてもCDがない! あと時間! どこにいったの?
 
 父方の祖母が亡くなったのでお通夜にでかけました。疲れたです。葬儀場の裏を線路が走っていて、電車がとおるたびに車輪のひびきをかすかに感じました。
 
 やや古い話題だとは思われますが、WILLCOMの新製品の中吊り広告がすごいなーと思ったので、引用しておきます。

「癒し系はブームだった。ブームにはきっと終わりがあるはずだ。ひいきかもしれないけど、働く姿が一番似合う国民は日本人な気がする。ニュースは、働く人がつくっている。働かない人がエライ国なんていやだ。豊かな国とは遊んで暮らせる国のことか? ゆとり教育で育った人は、やっばゆとり労働なんだろうか? 100才になっても働く。なんて素晴らしいことなんだろう。眠るのは死んでからにしよう。と、ある人は言った。さあ、働け。WILLCOM[es]、働く。」

 すごいですね。いいたいことはいくらでもありますが、むしろオイディプスのように目を潰して、「さあ、働け」とどこからか命を下す得体のしれない社会システムのもとでおしだまってひたすらに働きたくなりましたが、オイディプスは近親相姦の常習者なのでなかなか働き口が見付からないそうです。こどもっぽいのもたまには仕様がないです。眠るために死ななくてはなりませんね。
 
 オーレニカは自転車の鍵を失くした。
 
 学生時代は生きるのにまったく役に立たないことがらばかりに目が眩んでいたので、パレート最適だとか、クールノー均衡モデルだとか、国会議員の免責特権とか、郵便法違憲判決だとか、バージェスの同心円地帯理論だとか、PPMにおけるBCGマトリックスだとか、そういうわたしにとっていじわるいものごとをいまさら覚えようとしたところで、スポンジ状のわたしの頭からはすぐにこぼれていってしまいます。そればかりか、学び舎で呆けていたころに読んだ本や観た映画の内容も全部忘れてしまったし、自転車のタイヤはパンクしてしまったし、眠いし。

 というわけでもし何かの間違いでわたしがもろもろの資格試験の問題を作成することになったら、『トンデモ本の世界』で紹介されているトンデモ本、『仮面ライダー雑学小百科』で出題されているようなクイズを出します。眠いし。たとえばこんな。

「Q22 仮面ライダー新1号VSガラガランダ
 ショッカーの計画が漏れ、地獄大使は裏切り者の烙印を押され処刑をいい渡される。
 情報を得るため、本郷は断頭台から地獄大使を救うが、これらは、地獄大使の仕組むワナであった。さらにガラガランダに変身した地獄大使は、本郷抹殺のため味方のふりをして自らライダー本部に乗り込んだ。藤兵衛たちを捕え、本郷に挑みかかるガラガランダ!
 ここで問題。フランス革命で断頭台に散った歴史に残る女性の名は?
 A・ジャンヌ・ダルク
 B・マリー・アントワネット
 C・マリー・ジョセフィーヌ」(p.198,『トンデモ本の世界』)

 そして正解したひともまさかこんな問題を間違えてしまった奇特なひとも、のきなみ不合格にし、みんなで河原で石を拾って石屋をやります。
 
 今日は友人が遊びにくる予定だったので、たまには気合を入れて料理でも、と前日の夜からビーフシチューを仕込んでおいたのだけれど、急遽都合が悪くなって行けなくなりました、という旨の連絡が三時過ぎにあり、あとから別に足そうと思っていたじゃがいもとにんじんの面取りをそのときしていたわたしは、とても悲しくなってしまい、まだ面取りを済ませていない残りのじゃがいもとにんじんもそのままシチューにぶちこんで、じゃがりこなどをボリボリしながらYou TubeでTortoiseのライブや、わたしが小学生のころに流行っていたユーロビート系グループReal McCoy(ちなみに画像のMcCoy Tynerとは何の関係もありません)のビデオクリップなどを観て暇をぶっ潰していたのだが、ふと無性にいつも食べているバゲットが恋しくなって、雨脚もさっきより弱まってきたようなので、自転車に乗ってパン屋へ向かった

 しかし中途半端な時間だったので、いつものパン屋にはほとんどめぼしいパンもなく、仕方なく赴いた駅前のパン屋も、クロワッサンは焼きたてなのにバゲットは売り切れで、こういう日は何をやってもうまくいかないことは経験的に解っていたし、雨の勢いもまた強くなってきたみたいだし、いさぎよく諦めても良かったのだけれど、事実、家の方に自転車を向けて漕ぎだしたのだけれど、そういえば生協のなかにパン屋があったっけ、と思い出し、もうこの際何でもいいや、となかばヤケクソで、カチカチのバゲットと安物のワインと野菜ジュースを買った。

 生協を出ると案の定というか、雨がますます激しく降っていて、傘をさしながらよたよたと自転車を走らせていたら、やっぱりこれも案に違わずとでもいうか、角を曲がった際にハンドルを切り損ねて転んでしまい、その拍子に野菜ジュースのパックが破れ、バゲットを包んだ袋やワインはベトベトになるし、放り出されたバッグはびしょびしょになるしでもう散々で、生きていくことが嫌になった。

 そんなこんなで這々の体でようやっと家に帰り着き、食事をしつつ、ワインを半分以上も飲み空けると、具合よく酔いも回ってきて、考えてみればワインが割れなかっただけまだラッキーだった、ということに思い至り、というよりも無理にでもそう思うことにし、すると、いろんなことをふくめて、わたしってなんだかものすごく孤独だなあ、と泣けてきて、お風呂に入り、強い水勢のシャワーを頭から、脳にしみこむくらい長いあいだ浴び、日記を書き、もう寝ることにする。
 
 あまり大きな声ではいえないけれど、物心がつくかつかないかのころからいもとようこの絵本が好きで、おりにふれて母親から買い与えてもらうたびにくりかえし読んでは、後生大事にとってあったのですが、この前実家で大掃除をしたとき、どうしてか捨てるもののなかにまぎれてしまったらしくいくら探しても見付からず、たいそう悲しい思いをしました。

 というようなこともあり、ふと思いついて調べてみるといもとようこのホームページがあって(http://www.imoto-yoko.co.jp/)、彼女の絵本をいくつも読むことができ、そのなかでもやっぱり「ないた赤おに」はほんと泣ける話(作者は別のひとだけれど)で、他の絵本もみなかわいらしく、なかなか充実した時間をすごすことができました。それにくわえて、いもとようこは北海道の女満別駅に汽車を所有しており、そこに貸別荘として宿泊できるという情報(http://www.imoto-yoko.co.jp/train/train_3.html)を得て、ものすごく北海道に旅行がしたくなりました。まあ当分遠出の旅行は無理なんですが、今日の日記はちょっとブログっぽくないですか。
 
 お風呂に洗顔フォームとまちがえて歯磨き粉を持ち込んでしまいました。
 わたしにとってそれなりに貴重なニュースソースであるところの電車の中吊り広告に、昨今のLOHASブーム(というほど流行っているわけでもないだろうけど)を牽引している「ソトコト」の7月号の宣伝が載っていて、「ふたりで暮らすとCO2は減る。洗濯機も1台、冷蔵庫も1台。月のエアコン代も半分。人は結婚することで環境に優しくなれる」と大きな文字で書いてあり、一見それなりに説得力のありそうなそのコピーを何度も読んでいるうちにだんだんムカムカしてきてまわりのひとの迷惑も顧みずにその場で滔々と出口なお大本教開祖のお筆先を「三ぜんせかいいちどにひら九うめのはなもとのかみよにたてかえたてなおすぞすみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ……」と吟じあげようかと思ったけれど大本教の信者だと思われたら困るので止めた。

 もちろん現代社会にあって、健康と環境保全に留意して生活することは大切なことだろう。だがそれは自在にかたちを変える資本主義へのかすかな抵抗としてのみ、あるべきではないのか。それだのにその広告は、環境に優しくなれるなどという耳にさわりのよいコピーでもって結婚を勧め、さりげなくふたり用の洗濯機や冷蔵庫、エアコンを新しく買わせようと仕向け、ひとりだったら必要なかったかもしれない自動車やマイホームの所有の欲望さえ、もしかしたら呼び起こそうとしているかのように思える。だとしたら、LOHAS的生活とは、手を替え品を替え、あらゆる手段でもって消費の欲望を昂進させようとする資本主義のヴァージョンのひとつにすぎないのではないか(ストレートな資本主義礼讃の言説にくらべ、資本主義への抵抗、批判の外装を身にまとっている分、さらにたちが悪い)。

 みたいなことを考えてムカムカしたというわけですが、みなさんご指摘のとおり、こういう考えをまくしたてる輩にありがちなように、わたしこそ資本主義の奴隷です。ボーナスもないのにクレジットカードのボーナス払いでサンダルを購入するような従順な奉仕者です。そろそろ新しいパソコンも欲しいんですよね、ハードカバーの新刊は高いからなかなか買えません、だいたいブックオフです、お茶はミネラルウォーターを沸かして飲みます、You Tubeは楽しいですね、近いうちに軽井沢の温泉旅館「星のや」に泊まる予定です、ボーナスのある職場で働きたいです。わたしたちはことごとく、選択の余地無く資本主義の大渦のなかに放り込まれている! ええ、疲れてますが別にそのせいじゃありません。
 
 すませなければいけないささいな仕事があったので昨日は遅くまで起きていたのだが、眠気がねっとりとまとわりついてちっとも頭が働かない。仕方なく今日の朝に残りを片付けることにして、目覚まし時計をいくつもセット(低血圧気味で朝の弱いわたしにあわせて、起きなくてはならない時刻の一時間前に鳴るように)し、ベッドにもぐりこんだのだった。

 夢のなかで、わたしはバスを待っていた。時間より少し早く到着したバスに乗り込むと、乗客はわたしひとりだけ。バスが静かに走り出す。窓の外は夜のようでも、見慣れた風景のようでもある。どちらまでいかれるのですか? 感じの良い声で運転手が聞く。終点まで…? わたしは自信なく、そう答える。終点まで、それがあなたの向かいたい場所なんですね? わたしはそこにあなたを送り届けます、それがわたしの仕事ですから。確かに運転手はそのようにいい、わたしはそれをとても安心して聞いている。そのあとに内容のさだかではない話をいくつかし、いつのまにか眠ってしまうと、起きてください、着きましたよ、と運転手の声がして、夢のなかで目を覚ますと同時に、夢から覚醒したのだった。よだれを垂らしていた。

 携帯電話を見ると、4:59、目覚ましをかけた時間の1分前。しかも、いつもならそれからからだを起こすまで2,30分はかかるだろうに、すぐに机の前に座り、昨日やりかけたところから仕事をはじめることができたおかげで、こうして日記まで書く余裕すら。
 夢の話はとりとめもなく、あるいはこういうことはよくある話かもしれず、わざわざ書くようなことでもないけれど、わたしにとってははじめての体験だったのでちょっと興奮してしまい、つい日記を書きはじめたら、もうこんな時間。けっきょくあわただしく家を出ることになるだろう。またあのバスに乗れたらいい。
 
 電車が乗り換えの駅に到着し、席を立って開いたドアから降りようとしたときに、ふと車内の中吊り広告が目をかすめ、「狂牛病の牛を処分」、という文字だけを読むことができ、そのときのわたしは頭が弱っていたので、処分が決まっている狂牛病の疑いのある牛たちや、鳥インフルエンザに感染した可能性のある鶏たちをすべてひきとって、そのような危険がある畜肉でさえも口にできない、お腹を空かせためぐまれないこどもたちに寄付できたらなどと、すこし頭を働かせれば倫理的に問題があるのが明白なことを考えてしまい、そんな自分への嫌悪と呆れから、それらの動物たちをひきつれて人里離れた場所で楽しく暮らしたい、と思いました。
 

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