友人幾人かで他愛ない話に花を咲かせていたら、そのうちのひとりが「ベタだけどこのアルバムすごくいいから聞いてみてよ」と画像にあげたCDをわたしに差し出したので「あ、聞いたことあるよ、かなりいいよね、泣けるよ」と返答すると、彼女はあろうことか「いいでしょいいでしょイーデス・ハンソン」とのたまってしまい、唖然としたわたしたちの顔を見て、苦し紛れなのかボードレールがいうところの活動、戦闘の守神/デーモンにそそのかされたのか、つづけて彼女は「肉は憎い」と早口で吐き捨て、その何ともいえない、困惑だけが募っていくような発言とやんわりと脳が蕩けていくような場の雰囲気がわたしにはとても面白かったんだけれど、こうして文章で再現してみれば寒さばかりが伝わりますね。悔しい。
以前から心のすみにひっかかっているささいな事柄があったはずで、それについてまずはグーグルあたりで検索してみよう、と何度か考えたことがあったのだが、別に急ぐようなことでもなし、時間のあるときに、とそのたびに先延ばしにしていたら、肝心の事柄が何だったのか、さっぱり忘れてしまったのだった。
それだけならまだしも、さきほどパソコンを立ち上げた際にもその事柄の断片が頭に浮かんで、そうだ思い出した早速調べなきゃ、と思っているあいだにヤフーニュースなどに気をとられ、「大食い界に衝撃!ギャルソネ誕生!!」なんて記事に目をとおし、ギャルソネ氏の写真をさしたる興味もなくしげしげと眺めているうちに、たった2,3分前のことだったにもかかわらず、またもやすっかり失念してしまった。
このじれったい感覚は、めざめた刹那には覚えている夢の内容が、つぎの瞬間には記憶からことごとく脱落してしまい、二度と掬いあげることができないのに似ていて、そのあとしばらく記憶の再現に努めたのだけれど、いまになっても何だったのか思い出すことができないでいる。
別に思い出せなくても死ぬわけじゃなし、いずれまた必要に迫られでもすれば、その事柄がわたしの頭を訪れてくれるだろうから、よくあること、とみずからを慰めてみたところで、このところ似たようなことがこれまでになくたびたびあったような気がして、この日記なども、書いているそばから書くことを忘れてしまうていたらくで、思考能力の減退いちじるしく、わたしが書きたいことはもっとたくさんの、色とりどりの、微細な感情のちょっとした変化の、なんて、言葉にならぬもどかしさにモジモジしながら欠伸をかさねる。もしくは、やがて来るであろうすべてを飲み込む忘却の闇を思い、子どものようにおびえている。
それだけならまだしも、さきほどパソコンを立ち上げた際にもその事柄の断片が頭に浮かんで、そうだ思い出した早速調べなきゃ、と思っているあいだにヤフーニュースなどに気をとられ、「大食い界に衝撃!ギャルソネ誕生!!」なんて記事に目をとおし、ギャルソネ氏の写真をさしたる興味もなくしげしげと眺めているうちに、たった2,3分前のことだったにもかかわらず、またもやすっかり失念してしまった。
このじれったい感覚は、めざめた刹那には覚えている夢の内容が、つぎの瞬間には記憶からことごとく脱落してしまい、二度と掬いあげることができないのに似ていて、そのあとしばらく記憶の再現に努めたのだけれど、いまになっても何だったのか思い出すことができないでいる。
別に思い出せなくても死ぬわけじゃなし、いずれまた必要に迫られでもすれば、その事柄がわたしの頭を訪れてくれるだろうから、よくあること、とみずからを慰めてみたところで、このところ似たようなことがこれまでになくたびたびあったような気がして、この日記なども、書いているそばから書くことを忘れてしまうていたらくで、思考能力の減退いちじるしく、わたしが書きたいことはもっとたくさんの、色とりどりの、微細な感情のちょっとした変化の、なんて、言葉にならぬもどかしさにモジモジしながら欠伸をかさねる。もしくは、やがて来るであろうすべてを飲み込む忘却の闇を思い、子どものようにおびえている。
ペダンティックなプディングはさぞ美味しかろ
2006年4月23日 ひびのあれかこれか コメント (2)
わたし自身おペダンな気があるのであまりひとのことを悪くいえないのだけれど、ちょっとしたきっかけで知り合った、わたしよりもふたまわり近く年上の男性から幾度か遊びに誘われ、そのつど適当な理由を見繕って断っていたら、あなたは食わず嫌いな女だ、という内容の、糾弾調のメールをいただき、そんな態度だと世間を狭くする一方だし、肝心なものを手に入れ損ねる、と断定されてしまい、そのあとにこんなメールがつづいた。
<The proof of pudding is in the eating.――よもやこんな有名なことわざを知らない人はないだろう。どうか次を参照して頂きたい。『マルクス・エンゲルス全集』、ディーツ版、1973年、ベルリン。第十九巻、296頁。曰く、「プディングの味は食べてみなければ分からない(Man pruft den Pudding, indem man ihn ist)」。何事も試してみてからでなければ分らないという、この箴言は古今の著名な文献に引用されている。それ故、その忠言に、この際一度従ってみるのも悪くないように思われるのだが……。>
あらまあ、親子ほども歳のはなれた女にすげない態度をとられて、エンゲルスですか(ちなみに男性は冗談をいうタイプではないので、上のメールはいたって真面目なものだと思う)。
はじめにこのメールを読んだときはその大仰さにまず笑ってしまったのだが、しかしふと気になって、引用されている格言について調べてみると、エンゲルスは件の文言を、たとえばカントなら「物自体」といってそれ自体は認識不可能だとする、現象と区別されるかぎりでの物質について、認識することなど簡単だ、という意味で(カントの主張する立場をしりぞけるために)使用しているのだった。つまり四の五のいわずに「プディングをためすには食べてみることだ」と(ドイツ語は解らないので、慣用句にもなっている英語の方を訳すと「プディングの(存在の)証明は、食べることにある」というものになり、エンゲルスの主張に適応する)。
だとすれば、エンゲルスを持ち出しておきながら「何事も試してみなければ分からない」という意味に解することは端的に、エンゲルスの議論をまったく踏まえていないという点において、間違っているのではないか?
さらに調べると、「The proof of pudding is in the eating」という慣用表現は「論より証拠」と訳されているのだった。ここから、試してみないと解らない、というような意図を引き出すことはまあそれほど無理な話ではないが、しかしそのときも、問題となっているのはあくまでもプディングの存在であって、味ではないのではないかしら(食べてみてわかるのは「プディングがそこに存在していること」であって、「プディングの味」ではない、ということ)
なのにどうして「プディングの味は食べてみなければ分からない」という言い回しで流通するようになったのかといえば、それはどうやら丸山真男が「「である」ことと「する」こと」のなかでそう書いているからのようなのだった。
これを読むと、ここにおいて問題はたしかにプディングの存在から、味の方に移っている。丸山は「プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるか」と書いていて、おのおのの考え方を「である」ことと「する」ことへとそれぞれ結びつけているのだが、これは、丸山はエンゲルスの言葉を引きつつもそれに対して違ったアプローチをしていて、自身の問題意識に即して話を展開させているととらえることができよう。
つまり「The proof of pudding is in the eating」という表現には、エンゲルスのものと丸山真男のもの、ふたとおりの問題が内在しているということになる。さしあたり。にもかかわらずメールの男性はそのあたりをまったく考えずに、試してみないと解らないといいたいだけのために『マルクス・エンゲルス全集』の原著にあたれ、というのだ。
どうしてこんならちもないことでながながと書いてしまっているのか、自分自身不思議なのだけれど、なおも続けさせてもらえば、男性が箴言を引用する際に、(エンゲルスの論を敷衍すればなおさら)最初からプディングは美味しいものに決まっている、という確信があるようで、つまり試しに俺と遊んでみたら楽しくて惚れるだろう、みたいな思い込みを暗々裏に宿しているようで、それについても違和感を持ったし、だいたい食べたひとにしかプディング(の存在)が解らないのだとしたら何だかおかしいような気がするし、プディングの本質は食べることだというその決め付け(デコレーションや値段、材料、つくったひと、こめられた気持ちなどは本質には関係ないこと、瑣末なことだというのだろう、きっと)がとてもマッチョだと思うし、などと考えていくと、もう! 男性はたぶん、わたしのことなど軽く見ているだろうからたいして頭を働かせもせずに、ペダンティックな態度を気取ってみたのかもしれないが、それにしても……。
書きはじめはなかば冗談のつもりだったのに、書きすすめるうちにプリプリしてきてしまいました。なんとちまちました書き込みなのでしょうか。
男性には、わたしは試してみても解らない、という考え方の方が好きです、ごめんなさい、とだけ書いて返しました。
※いたって個人的なメールをここに公開することは問題ある行為でしょうが、男性とはじめて話した際に、書かれたもの話したこと、あらゆる言説はいくらでもどこにでも引用されうるし、自分はそれをされたとて一向に構わない、とつよくいいきってらしたので、それに甘えさせてもらうことにしました。
<The proof of pudding is in the eating.――よもやこんな有名なことわざを知らない人はないだろう。どうか次を参照して頂きたい。『マルクス・エンゲルス全集』、ディーツ版、1973年、ベルリン。第十九巻、296頁。曰く、「プディングの味は食べてみなければ分からない(Man pruft den Pudding, indem man ihn ist)」。何事も試してみてからでなければ分らないという、この箴言は古今の著名な文献に引用されている。それ故、その忠言に、この際一度従ってみるのも悪くないように思われるのだが……。>
あらまあ、親子ほども歳のはなれた女にすげない態度をとられて、エンゲルスですか(ちなみに男性は冗談をいうタイプではないので、上のメールはいたって真面目なものだと思う)。
はじめにこのメールを読んだときはその大仰さにまず笑ってしまったのだが、しかしふと気になって、引用されている格言について調べてみると、エンゲルスは件の文言を、たとえばカントなら「物自体」といってそれ自体は認識不可能だとする、現象と区別されるかぎりでの物質について、認識することなど簡単だ、という意味で(カントの主張する立場をしりぞけるために)使用しているのだった。つまり四の五のいわずに「プディングをためすには食べてみることだ」と(ドイツ語は解らないので、慣用句にもなっている英語の方を訳すと「プディングの(存在の)証明は、食べることにある」というものになり、エンゲルスの主張に適応する)。
だとすれば、エンゲルスを持ち出しておきながら「何事も試してみなければ分からない」という意味に解することは端的に、エンゲルスの議論をまったく踏まえていないという点において、間違っているのではないか?
さらに調べると、「The proof of pudding is in the eating」という慣用表現は「論より証拠」と訳されているのだった。ここから、試してみないと解らない、というような意図を引き出すことはまあそれほど無理な話ではないが、しかしそのときも、問題となっているのはあくまでもプディングの存在であって、味ではないのではないかしら(食べてみてわかるのは「プディングがそこに存在していること」であって、「プディングの味」ではない、ということ)
なのにどうして「プディングの味は食べてみなければ分からない」という言い回しで流通するようになったのかといえば、それはどうやら丸山真男が「「である」ことと「する」こと」のなかでそう書いているからのようなのだった。
これを読むと、ここにおいて問題はたしかにプディングの存在から、味の方に移っている。丸山は「プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるか」と書いていて、おのおのの考え方を「である」ことと「する」ことへとそれぞれ結びつけているのだが、これは、丸山はエンゲルスの言葉を引きつつもそれに対して違ったアプローチをしていて、自身の問題意識に即して話を展開させているととらえることができよう。
つまり「The proof of pudding is in the eating」という表現には、エンゲルスのものと丸山真男のもの、ふたとおりの問題が内在しているということになる。さしあたり。にもかかわらずメールの男性はそのあたりをまったく考えずに、試してみないと解らないといいたいだけのために『マルクス・エンゲルス全集』の原著にあたれ、というのだ。
どうしてこんならちもないことでながながと書いてしまっているのか、自分自身不思議なのだけれど、なおも続けさせてもらえば、男性が箴言を引用する際に、(エンゲルスの論を敷衍すればなおさら)最初からプディングは美味しいものに決まっている、という確信があるようで、つまり試しに俺と遊んでみたら楽しくて惚れるだろう、みたいな思い込みを暗々裏に宿しているようで、それについても違和感を持ったし、だいたい食べたひとにしかプディング(の存在)が解らないのだとしたら何だかおかしいような気がするし、プディングの本質は食べることだというその決め付け(デコレーションや値段、材料、つくったひと、こめられた気持ちなどは本質には関係ないこと、瑣末なことだというのだろう、きっと)がとてもマッチョだと思うし、などと考えていくと、もう! 男性はたぶん、わたしのことなど軽く見ているだろうからたいして頭を働かせもせずに、ペダンティックな態度を気取ってみたのかもしれないが、それにしても……。
書きはじめはなかば冗談のつもりだったのに、書きすすめるうちにプリプリしてきてしまいました。なんとちまちました書き込みなのでしょうか。
男性には、わたしは試してみても解らない、という考え方の方が好きです、ごめんなさい、とだけ書いて返しました。
※いたって個人的なメールをここに公開することは問題ある行為でしょうが、男性とはじめて話した際に、書かれたもの話したこと、あらゆる言説はいくらでもどこにでも引用されうるし、自分はそれをされたとて一向に構わない、とつよくいいきってらしたので、それに甘えさせてもらうことにしました。
傘をさしていても濡れる一方なので目に付いたカフェに避難して中国茶をすすりながら外を行くひとびとを眺めていたら、知り合いの男性からメールがあって、何してますか? お茶してます。誰かと? いいえひとりで。じゃあ一緒にお茶しませんか? ええいいですよ。ということになり、彼が来るまでにすこしかかるといわれたため二回目の湯を急須についでもらって時間をかけ何度かに分けて飲み、三回目をたのむのは気がひけたので新しく注文しようとするとお店のひとがまだもう一回くらい出ますよと教えてくれたので、じゃあお願いしますとさらに湯を足してもらいだいぶ時間を置いてから茶碗にそそいだそのお茶はあらかた味も香りも消えてしまっていた。
彼がやってきたのはほとんどお白湯みたいなそれをも飲み干してしまったころで、遅かったですね、と文句のひとつもぶつけようと思ったのだが、彼は自分が相手を待たせてしまったことなど一向に気にしていないふうだったので、何もいわなかった。まだまだ天気は不機嫌なようで弱まる気配もなく、カフェの出窓の表面に銀色の雨粒がはじけていた。
それから、彼の仕事での人間関係についてや、共通の友人、さいきん読んだ本のことなどを話した。それほど話が合わないわけではなかったし、彼のことは嫌いではなかったので、わたしはわたしが抱えている問題について、問題未満のことがらについて、ずっとくすぶって消えない不満について話したかったが、それを告げてみても彼にはうまく伝わらないような気がしたし、彼が仮にわたしだったとして相手からそのようなことを話されたとしたらおそらく困惑してしまうだろうし、下手したら相手を軽蔑してしまうだろうと思えばなおさら話すことは憚られた。そのうちにもどかしさばかりが募ってきて悲しくなり、会話していてもちっとも楽しくなくなってしまったのだが、ひとり勝手にセンチメンタルな気分にひたるのはとても悪いことだと思ってどうにか気をとりなおし、彼が読んだという森健の新刊について話した。表紙がちょっとかわいいですよね、とか何とか。
別れたあとにすぐ、律儀な彼から「今日も楽しかった」みたいなメールが来たので、「わたしも楽しかったけど何だかうまく話せなくてもどかしい気持ちになりました」と返事をすると、「あれもこれも話せばよかったなと思うのは僕も同じですよ、でもそのもどかしさが次回も会う口実というかモチベーションになるからいいか、と楽観してるけど」と最寄の駅に着いたころにメールがあった。彼には申し訳ないけれど、わたしにとってはもどかしさがモチベーションをむしろ奪っていってしまう。次回会おうという誘いがあったら、断ろう。
わたしは彼のメールを読んでセンチメンタルな気持ちが再燃し、たまにはいいよね、ひとりだし、と自分に言い訳しつつ、一度はひろげた傘をたたみ、濡れそぼちながら家路についた。
彼がやってきたのはほとんどお白湯みたいなそれをも飲み干してしまったころで、遅かったですね、と文句のひとつもぶつけようと思ったのだが、彼は自分が相手を待たせてしまったことなど一向に気にしていないふうだったので、何もいわなかった。まだまだ天気は不機嫌なようで弱まる気配もなく、カフェの出窓の表面に銀色の雨粒がはじけていた。
それから、彼の仕事での人間関係についてや、共通の友人、さいきん読んだ本のことなどを話した。それほど話が合わないわけではなかったし、彼のことは嫌いではなかったので、わたしはわたしが抱えている問題について、問題未満のことがらについて、ずっとくすぶって消えない不満について話したかったが、それを告げてみても彼にはうまく伝わらないような気がしたし、彼が仮にわたしだったとして相手からそのようなことを話されたとしたらおそらく困惑してしまうだろうし、下手したら相手を軽蔑してしまうだろうと思えばなおさら話すことは憚られた。そのうちにもどかしさばかりが募ってきて悲しくなり、会話していてもちっとも楽しくなくなってしまったのだが、ひとり勝手にセンチメンタルな気分にひたるのはとても悪いことだと思ってどうにか気をとりなおし、彼が読んだという森健の新刊について話した。表紙がちょっとかわいいですよね、とか何とか。
別れたあとにすぐ、律儀な彼から「今日も楽しかった」みたいなメールが来たので、「わたしも楽しかったけど何だかうまく話せなくてもどかしい気持ちになりました」と返事をすると、「あれもこれも話せばよかったなと思うのは僕も同じですよ、でもそのもどかしさが次回も会う口実というかモチベーションになるからいいか、と楽観してるけど」と最寄の駅に着いたころにメールがあった。彼には申し訳ないけれど、わたしにとってはもどかしさがモチベーションをむしろ奪っていってしまう。次回会おうという誘いがあったら、断ろう。
わたしは彼のメールを読んでセンチメンタルな気持ちが再燃し、たまにはいいよね、ひとりだし、と自分に言い訳しつつ、一度はひろげた傘をたたみ、濡れそぼちながら家路についた。
Heavy Flow Days
2006年4月1日 ひびのあれかこれか
たまたま「flow」という語をYahoo!辞書で検索してみると、語の説明のほかにさまざまな成文が掲載されていて、それはたとえば
「A stream flows into the lake.(小川が湖に注いでいる)」
「Instructions always flow from headquarters.(指令はいつも本部から出る)」
「An endless line of cars flowed by.(いつ尽きるともしれない車の流れが続いた)」
「The talk flowed on.(会話は途切れずに続いた)」
「The children’s bickering flowed over me.(子供の口論はぼくにはまったく気にならなかった)」
「Her hair flowed over her shoulders.(彼女の両肩に髪がたれ下がっていた)」
「The room flowed with music.(部屋いっぱいに音楽が流れていた)」
「Champagne flowed all night.(夜通しシャンペンがたくさん出た)」
「the flow of history(歴史の流れ)」
「heavy flow days(月経が多い日)」
といったようなものだったのだけれど、それらの文章のつづりに対してわたしは、とても美しいと感じました。わたしがたわむれに書いたりする言葉らなど、ほとんどおよぶことがない、と。そんな風に感じること、考えることは不実なことだとも思います。言い訳ですが。
「A stream flows into the lake.(小川が湖に注いでいる)」
「Instructions always flow from headquarters.(指令はいつも本部から出る)」
「An endless line of cars flowed by.(いつ尽きるともしれない車の流れが続いた)」
「The talk flowed on.(会話は途切れずに続いた)」
「The children’s bickering flowed over me.(子供の口論はぼくにはまったく気にならなかった)」
「Her hair flowed over her shoulders.(彼女の両肩に髪がたれ下がっていた)」
「The room flowed with music.(部屋いっぱいに音楽が流れていた)」
「Champagne flowed all night.(夜通しシャンペンがたくさん出た)」
「the flow of history(歴史の流れ)」
「heavy flow days(月経が多い日)」
といったようなものだったのだけれど、それらの文章のつづりに対してわたしは、とても美しいと感じました。わたしがたわむれに書いたりする言葉らなど、ほとんどおよぶことがない、と。そんな風に感じること、考えることは不実なことだとも思います。言い訳ですが。
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