たまのやすみには
2006年7月23日 われはうたえどもはっぽうやぶれたまのやすみには
有意義なことがしたいわ よごれている部屋のかたづけや
書きかけの手紙をしあげたり アイロンがけ 映画!
とか そういうのじゃなくて
やらないよりはやったほうがよいこと じゃなくて
もっとこう なにかしら 倫理的な
とか そういうことを考えるのは
きっと昨日読んだ本のせい
ね あなたは
居間にいるの?
墓のしたにいるの?
すこし前
あなたではないほかのひとと
たくさんの墓がたちならぶなかを ゆっくりと
進んでいった
誕生日のお祝いの帰りで こじんまりとした
店構えの フランス料理屋のテーブルで
向かいあっていた すこし前のさっきまで
すこし前のさっきのあとは 墓地を歩いている
暗がりのなか 涼しい風
いなくなった
たくさんのひとたちへの
ささやかな挨拶の仕方を
教えてほしかった
信じないよりは信じたほうがよいものが
たまのやすみには
必要かしら
もう夜のにおいがする
テーブルのうえだけはかたづけ
友人に電話して
アイロンテーブルやスチーム効果について話したり
昨日読んだ本については
話さなかった
それでこれから 何時間眠れる?
やすみが終われば
終わりまでまたすこし
近づく
ね あなたは
終わりのあとも
やすんでいるの? やすらかに?
有意義だった?
だれもがハッピーエンドを望んでいる
と思ってたけど そうでもないのかもとさいきん
考える 蛍光灯が
洗濯物を照らしている
昨日読んだ本も
窓のそとも
血色の悪いうで
墓地
ささやかな挨拶
ハッピーエンドも
有意義なことがしたいわ よごれている部屋のかたづけや
書きかけの手紙をしあげたり アイロンがけ 映画!
とか そういうのじゃなくて
やらないよりはやったほうがよいこと じゃなくて
もっとこう なにかしら 倫理的な
とか そういうことを考えるのは
きっと昨日読んだ本のせい
ね あなたは
居間にいるの?
墓のしたにいるの?
すこし前
あなたではないほかのひとと
たくさんの墓がたちならぶなかを ゆっくりと
進んでいった
誕生日のお祝いの帰りで こじんまりとした
店構えの フランス料理屋のテーブルで
向かいあっていた すこし前のさっきまで
すこし前のさっきのあとは 墓地を歩いている
暗がりのなか 涼しい風
いなくなった
たくさんのひとたちへの
ささやかな挨拶の仕方を
教えてほしかった
信じないよりは信じたほうがよいものが
たまのやすみには
必要かしら
もう夜のにおいがする
テーブルのうえだけはかたづけ
友人に電話して
アイロンテーブルやスチーム効果について話したり
昨日読んだ本については
話さなかった
それでこれから 何時間眠れる?
やすみが終われば
終わりまでまたすこし
近づく
ね あなたは
終わりのあとも
やすんでいるの? やすらかに?
有意義だった?
だれもがハッピーエンドを望んでいる
と思ってたけど そうでもないのかもとさいきん
考える 蛍光灯が
洗濯物を照らしている
昨日読んだ本も
窓のそとも
血色の悪いうで
墓地
ささやかな挨拶
ハッピーエンドも
われらの時代
2006年6月27日 書かれえぬ書物の焚焼
「フォッサルタ戦線の塹壕が砲撃で粉砕されているあいだ、彼は身をぴったり伏せて、汗だくになりながら祈っていた。ああイエスさま、どうかぼくをここから連れだしてください。お願いだから、ここから連れだしてください。お願いです、お願いです、お願いですから、どうか。ぼくを殺さずに生かしてくれたら、あなたの言うことはなんでも従います。ぼくはあなたを信じています。唯一大切な方はあなただけだ、と世界中の人に言ってやります。お願いです、どうぞお願いですから、イエスさま。砲撃は戦線の前方に移った。われわれは塹壕の補修をはじめた。朝になると太陽が顔をだし、暑くてじめついた、陽気で平穏な日になった。翌日の晩メストレに戻ったとき、彼は売春宿ヴィラ・ロッサの二階に一緒にあがった女に、イエスのことは話さなかった。その後も、だれにも話さなかった」(p95,『ヘミングウェイ全短編1』)
学生時代は生きるのにまったく役に立たないことがらばかりに目が眩んでいたので、パレート最適だとか、クールノー均衡モデルだとか、国会議員の免責特権とか、郵便法違憲判決だとか、バージェスの同心円地帯理論だとか、PPMにおけるBCGマトリックスだとか、そういうわたしにとっていじわるいものごとをいまさら覚えようとしたところで、スポンジ状のわたしの頭からはすぐにこぼれていってしまいます。そればかりか、学び舎で呆けていたころに読んだ本や観た映画の内容も全部忘れてしまったし、自転車のタイヤはパンクしてしまったし、眠いし。
というわけでもし何かの間違いでわたしがもろもろの資格試験の問題を作成することになったら、『トンデモ本の世界』で紹介されているトンデモ本、『仮面ライダー雑学小百科』で出題されているようなクイズを出します。眠いし。たとえばこんな。
「Q22 仮面ライダー新1号VSガラガランダ
ショッカーの計画が漏れ、地獄大使は裏切り者の烙印を押され処刑をいい渡される。
情報を得るため、本郷は断頭台から地獄大使を救うが、これらは、地獄大使の仕組むワナであった。さらにガラガランダに変身した地獄大使は、本郷抹殺のため味方のふりをして自らライダー本部に乗り込んだ。藤兵衛たちを捕え、本郷に挑みかかるガラガランダ!
ここで問題。フランス革命で断頭台に散った歴史に残る女性の名は?
A・ジャンヌ・ダルク
B・マリー・アントワネット
C・マリー・ジョセフィーヌ」(p.198,『トンデモ本の世界』)
そして正解したひともまさかこんな問題を間違えてしまった奇特なひとも、のきなみ不合格にし、みんなで河原で石を拾って石屋をやります。
というわけでもし何かの間違いでわたしがもろもろの資格試験の問題を作成することになったら、『トンデモ本の世界』で紹介されているトンデモ本、『仮面ライダー雑学小百科』で出題されているようなクイズを出します。眠いし。たとえばこんな。
「Q22 仮面ライダー新1号VSガラガランダ
ショッカーの計画が漏れ、地獄大使は裏切り者の烙印を押され処刑をいい渡される。
情報を得るため、本郷は断頭台から地獄大使を救うが、これらは、地獄大使の仕組むワナであった。さらにガラガランダに変身した地獄大使は、本郷抹殺のため味方のふりをして自らライダー本部に乗り込んだ。藤兵衛たちを捕え、本郷に挑みかかるガラガランダ!
ここで問題。フランス革命で断頭台に散った歴史に残る女性の名は?
A・ジャンヌ・ダルク
B・マリー・アントワネット
C・マリー・ジョセフィーヌ」(p.198,『トンデモ本の世界』)
そして正解したひともまさかこんな問題を間違えてしまった奇特なひとも、のきなみ不合格にし、みんなで河原で石を拾って石屋をやります。
かつての小菅刑務所を眺めることが
2006年6月19日 書かれえぬ書物の焚焼この澄めるこころ在るとは知らず来て
刑死の明日に迫る夜温し
(島秋人)
わたしはこのエントリーで、広い意味でのファシズムについて書きたかったはずだったのですが、だいぶ難しかったので、今回は断念することにしました。いずれ、文学の効用と死刑囚と死刑制度と悔い改めることと赦しの問題とファシズム批判としての文学の可能性についてまとめて書くことができたらいいな、と思っています。それまでは、それまでは――どうしよう?
僕が社会人になって最初に配属されたのが週刊誌でねえ、はじめのうちは一生懸命仕事してたんだけど、そりゃあヤクザな商売だから、そのうちに悪い遊びにはまっちゃって、全然家にも帰らないで、場末のね、最底辺のひとたちが管を巻いてる飲み屋に入り浸っては、女とね、もうこれがどうしようもない女とね、まあ何ていうか、一日中過ごしたりしたんですよ、ああ僕ね、焼酎ください焼酎、梅ジュース入れたのお願いします、それでいつだったか、目を覚ましたら全然知らない女の家にいてねえ、隣を見たら、その女の顔がまたひどかった! ブサイクなのもそうなんだけど、もうそこには神も仏もないんだねえ、地の底なんですよ、光がまったく射さないところでもひとは生きてるんだねえ、そんなふうにいったらその女に失礼だけどね、仕方ないんですよほんとなんだもの、そりゃあもうひどいんだから、あなたたちには想像付かないだろうねえ、もう40年近く昔の話だから、とにかくそのときには僕ほんと悲しくなっちゃってね、どうがんばっても這い上がれないところまで来ちゃったな、と思い込まされたんだなあ、でもまたねえ、女たちがやさしいんですよ、最底辺の女たちのそりゃあやさしいことよ、もう一杯、適当なのいただけますか、同じの? ええ、ええ、じゃあそれでいいです、ええ、梅ジュースのやつね、お願いします、それからは仕事場にもあまり顔出さないってんで、上司から実家に電話があったりしてね、いよいよ俺もこの女たちと生涯を過ごすことになるのだろうか、なんて考えていたときにねえ、出会ったんですよ! セリーヌに、『夜の果ての旅』に! 彼の書く世界はまったくどうしようもなくてねえ、蛆虫みたいな、最下層の、屑そのものの人間を描いてるでしょう? そのセリーヌにね、僕はあのとき救われたんだなあ、セリーヌが、僕に生きる勇気をくれたんですよ、おおげさでも何でもなくね、セリーヌによって、人間のもっとも良質な知性によって、僕はあの心やさしき女たちに別れを告げたんですよ、かっかっか、だからあなたたちもね、絶望することないですよ、セリーヌが僕を救ってくれたように、必ずや文学が、あなたたちのことを救ってくれるんだから、いやあ、あなたたちは大丈夫! かっかっか。
などとわたしたちに向けて放言しまくっていた、かつて編集者現在おじいちゃんのWさんについて、ジュンク堂書店で開催している大江健三郎書店に置いてあるセリーヌ全集を手にとった際に思い出し、近頃会っていないけれど元気にしているかしら、メールでも送ってみようかな、と考えつつグーグルで彼の名前を検索してみると、彼の住んでいる町で、彼が町長に立候補した、という記事を見付け、びっくり仰天、現職の町長以外に立候補者がいない状況を見かねて、「無投票では、民主主義が死んでしまう。このままでいいんですか。行動を起こさなければ町は死んでしまいますよ」と訴え、無所属でみずからが出馬することにしたという。つづけて他の記事を検索してみると、有志の町民たちが手作りの選挙公報や手弁当を用意して応援したのだけれど、健闘むなしく、9000票対4700票で敗れてしまったとのこと。なんともはや。
Wさんは飄々とした好々爺で、文学に魂を捧げていて、いまはもう存在しない名だたる文学者たちと渡りあい、優れた小説をいくつも文芸誌に掲載し、日本の文学を陰から支えてきたひと(たぶん)。なのにものすごく適当で、おじいちゃんになって暇を持てあまし、わたしたちなんかの相手をしてくれ、いつもわたしたちを元気付けてくれる、だけどとことん適当な、そんなひと。
わたしの知っているひとがわたしの知らないところで理不尽な世界に立ち向かっていること、立ち向かいながらも力及ばず倒れてしまう事実を目の当たりにし、ああ、そうだよなあ、しっかりしなきゃ、と殊勝な気持ちになって、ああセリーヌ読みたいなあと部屋を探せば、そういえばずっと前に後輩の女の子に貸したまま。とりあえずは彼女の家を襲撃に行くことに決めて、わたしにとってのびっくりニュースを処理することにした。文学はわたしたちを救ってくれるかなあ。
などとわたしたちに向けて放言しまくっていた、かつて編集者現在おじいちゃんのWさんについて、ジュンク堂書店で開催している大江健三郎書店に置いてあるセリーヌ全集を手にとった際に思い出し、近頃会っていないけれど元気にしているかしら、メールでも送ってみようかな、と考えつつグーグルで彼の名前を検索してみると、彼の住んでいる町で、彼が町長に立候補した、という記事を見付け、びっくり仰天、現職の町長以外に立候補者がいない状況を見かねて、「無投票では、民主主義が死んでしまう。このままでいいんですか。行動を起こさなければ町は死んでしまいますよ」と訴え、無所属でみずからが出馬することにしたという。つづけて他の記事を検索してみると、有志の町民たちが手作りの選挙公報や手弁当を用意して応援したのだけれど、健闘むなしく、9000票対4700票で敗れてしまったとのこと。なんともはや。
Wさんは飄々とした好々爺で、文学に魂を捧げていて、いまはもう存在しない名だたる文学者たちと渡りあい、優れた小説をいくつも文芸誌に掲載し、日本の文学を陰から支えてきたひと(たぶん)。なのにものすごく適当で、おじいちゃんになって暇を持てあまし、わたしたちなんかの相手をしてくれ、いつもわたしたちを元気付けてくれる、だけどとことん適当な、そんなひと。
わたしの知っているひとがわたしの知らないところで理不尽な世界に立ち向かっていること、立ち向かいながらも力及ばず倒れてしまう事実を目の当たりにし、ああ、そうだよなあ、しっかりしなきゃ、と殊勝な気持ちになって、ああセリーヌ読みたいなあと部屋を探せば、そういえばずっと前に後輩の女の子に貸したまま。とりあえずは彼女の家を襲撃に行くことに決めて、わたしにとってのびっくりニュースを処理することにした。文学はわたしたちを救ってくれるかなあ。
今日は友人が遊びにくる予定だったので、たまには気合を入れて料理でも、と前日の夜からビーフシチューを仕込んでおいたのだけれど、急遽都合が悪くなって行けなくなりました、という旨の連絡が三時過ぎにあり、あとから別に足そうと思っていたじゃがいもとにんじんの面取りをそのときしていたわたしは、とても悲しくなってしまい、まだ面取りを済ませていない残りのじゃがいもとにんじんもそのままシチューにぶちこんで、じゃがりこなどをボリボリしながらYou TubeでTortoiseのライブや、わたしが小学生のころに流行っていたユーロビート系グループReal McCoy(ちなみに画像のMcCoy Tynerとは何の関係もありません)のビデオクリップなどを観て暇をぶっ潰していたのだが、ふと無性にいつも食べているバゲットが恋しくなって、雨脚もさっきより弱まってきたようなので、自転車に乗ってパン屋へ向かった
しかし中途半端な時間だったので、いつものパン屋にはほとんどめぼしいパンもなく、仕方なく赴いた駅前のパン屋も、クロワッサンは焼きたてなのにバゲットは売り切れで、こういう日は何をやってもうまくいかないことは経験的に解っていたし、雨の勢いもまた強くなってきたみたいだし、いさぎよく諦めても良かったのだけれど、事実、家の方に自転車を向けて漕ぎだしたのだけれど、そういえば生協のなかにパン屋があったっけ、と思い出し、もうこの際何でもいいや、となかばヤケクソで、カチカチのバゲットと安物のワインと野菜ジュースを買った。
生協を出ると案の定というか、雨がますます激しく降っていて、傘をさしながらよたよたと自転車を走らせていたら、やっぱりこれも案に違わずとでもいうか、角を曲がった際にハンドルを切り損ねて転んでしまい、その拍子に野菜ジュースのパックが破れ、バゲットを包んだ袋やワインはベトベトになるし、放り出されたバッグはびしょびしょになるしでもう散々で、生きていくことが嫌になった。
そんなこんなで這々の体でようやっと家に帰り着き、食事をしつつ、ワインを半分以上も飲み空けると、具合よく酔いも回ってきて、考えてみればワインが割れなかっただけまだラッキーだった、ということに思い至り、というよりも無理にでもそう思うことにし、すると、いろんなことをふくめて、わたしってなんだかものすごく孤独だなあ、と泣けてきて、お風呂に入り、強い水勢のシャワーを頭から、脳にしみこむくらい長いあいだ浴び、日記を書き、もう寝ることにする。
しかし中途半端な時間だったので、いつものパン屋にはほとんどめぼしいパンもなく、仕方なく赴いた駅前のパン屋も、クロワッサンは焼きたてなのにバゲットは売り切れで、こういう日は何をやってもうまくいかないことは経験的に解っていたし、雨の勢いもまた強くなってきたみたいだし、いさぎよく諦めても良かったのだけれど、事実、家の方に自転車を向けて漕ぎだしたのだけれど、そういえば生協のなかにパン屋があったっけ、と思い出し、もうこの際何でもいいや、となかばヤケクソで、カチカチのバゲットと安物のワインと野菜ジュースを買った。
生協を出ると案の定というか、雨がますます激しく降っていて、傘をさしながらよたよたと自転車を走らせていたら、やっぱりこれも案に違わずとでもいうか、角を曲がった際にハンドルを切り損ねて転んでしまい、その拍子に野菜ジュースのパックが破れ、バゲットを包んだ袋やワインはベトベトになるし、放り出されたバッグはびしょびしょになるしでもう散々で、生きていくことが嫌になった。
そんなこんなで這々の体でようやっと家に帰り着き、食事をしつつ、ワインを半分以上も飲み空けると、具合よく酔いも回ってきて、考えてみればワインが割れなかっただけまだラッキーだった、ということに思い至り、というよりも無理にでもそう思うことにし、すると、いろんなことをふくめて、わたしってなんだかものすごく孤独だなあ、と泣けてきて、お風呂に入り、強い水勢のシャワーを頭から、脳にしみこむくらい長いあいだ浴び、日記を書き、もう寝ることにする。
あまり大きな声ではいえないけれど、物心がつくかつかないかのころからいもとようこの絵本が好きで、おりにふれて母親から買い与えてもらうたびにくりかえし読んでは、後生大事にとってあったのですが、この前実家で大掃除をしたとき、どうしてか捨てるもののなかにまぎれてしまったらしくいくら探しても見付からず、たいそう悲しい思いをしました。
というようなこともあり、ふと思いついて調べてみるといもとようこのホームページがあって(http://www.imoto-yoko.co.jp/)、彼女の絵本をいくつも読むことができ、そのなかでもやっぱり「ないた赤おに」はほんと泣ける話(作者は別のひとだけれど)で、他の絵本もみなかわいらしく、なかなか充実した時間をすごすことができました。それにくわえて、いもとようこは北海道の女満別駅に汽車を所有しており、そこに貸別荘として宿泊できるという情報(http://www.imoto-yoko.co.jp/train/train_3.html)を得て、ものすごく北海道に旅行がしたくなりました。まあ当分遠出の旅行は無理なんですが、今日の日記はちょっとブログっぽくないですか。
というようなこともあり、ふと思いついて調べてみるといもとようこのホームページがあって(http://www.imoto-yoko.co.jp/)、彼女の絵本をいくつも読むことができ、そのなかでもやっぱり「ないた赤おに」はほんと泣ける話(作者は別のひとだけれど)で、他の絵本もみなかわいらしく、なかなか充実した時間をすごすことができました。それにくわえて、いもとようこは北海道の女満別駅に汽車を所有しており、そこに貸別荘として宿泊できるという情報(http://www.imoto-yoko.co.jp/train/train_3.html)を得て、ものすごく北海道に旅行がしたくなりました。まあ当分遠出の旅行は無理なんですが、今日の日記はちょっとブログっぽくないですか。
わたしにとってそれなりに貴重なニュースソースであるところの電車の中吊り広告に、昨今のLOHASブーム(というほど流行っているわけでもないだろうけど)を牽引している「ソトコト」の7月号の宣伝が載っていて、「ふたりで暮らすとCO2は減る。洗濯機も1台、冷蔵庫も1台。月のエアコン代も半分。人は結婚することで環境に優しくなれる」と大きな文字で書いてあり、一見それなりに説得力のありそうなそのコピーを何度も読んでいるうちにだんだんムカムカしてきてまわりのひとの迷惑も顧みずにその場で滔々と出口なお大本教開祖のお筆先を「三ぜんせかいいちどにひら九うめのはなもとのかみよにたてかえたてなおすぞすみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ……」と吟じあげようかと思ったけれど大本教の信者だと思われたら困るので止めた。
もちろん現代社会にあって、健康と環境保全に留意して生活することは大切なことだろう。だがそれは自在にかたちを変える資本主義へのかすかな抵抗としてのみ、あるべきではないのか。それだのにその広告は、環境に優しくなれるなどという耳にさわりのよいコピーでもって結婚を勧め、さりげなくふたり用の洗濯機や冷蔵庫、エアコンを新しく買わせようと仕向け、ひとりだったら必要なかったかもしれない自動車やマイホームの所有の欲望さえ、もしかしたら呼び起こそうとしているかのように思える。だとしたら、LOHAS的生活とは、手を替え品を替え、あらゆる手段でもって消費の欲望を昂進させようとする資本主義のヴァージョンのひとつにすぎないのではないか(ストレートな資本主義礼讃の言説にくらべ、資本主義への抵抗、批判の外装を身にまとっている分、さらにたちが悪い)。
みたいなことを考えてムカムカしたというわけですが、みなさんご指摘のとおり、こういう考えをまくしたてる輩にありがちなように、わたしこそ資本主義の奴隷です。ボーナスもないのにクレジットカードのボーナス払いでサンダルを購入するような従順な奉仕者です。そろそろ新しいパソコンも欲しいんですよね、ハードカバーの新刊は高いからなかなか買えません、だいたいブックオフです、お茶はミネラルウォーターを沸かして飲みます、You Tubeは楽しいですね、近いうちに軽井沢の温泉旅館「星のや」に泊まる予定です、ボーナスのある職場で働きたいです。わたしたちはことごとく、選択の余地無く資本主義の大渦のなかに放り込まれている! ええ、疲れてますが別にそのせいじゃありません。
もちろん現代社会にあって、健康と環境保全に留意して生活することは大切なことだろう。だがそれは自在にかたちを変える資本主義へのかすかな抵抗としてのみ、あるべきではないのか。それだのにその広告は、環境に優しくなれるなどという耳にさわりのよいコピーでもって結婚を勧め、さりげなくふたり用の洗濯機や冷蔵庫、エアコンを新しく買わせようと仕向け、ひとりだったら必要なかったかもしれない自動車やマイホームの所有の欲望さえ、もしかしたら呼び起こそうとしているかのように思える。だとしたら、LOHAS的生活とは、手を替え品を替え、あらゆる手段でもって消費の欲望を昂進させようとする資本主義のヴァージョンのひとつにすぎないのではないか(ストレートな資本主義礼讃の言説にくらべ、資本主義への抵抗、批判の外装を身にまとっている分、さらにたちが悪い)。
みたいなことを考えてムカムカしたというわけですが、みなさんご指摘のとおり、こういう考えをまくしたてる輩にありがちなように、わたしこそ資本主義の奴隷です。ボーナスもないのにクレジットカードのボーナス払いでサンダルを購入するような従順な奉仕者です。そろそろ新しいパソコンも欲しいんですよね、ハードカバーの新刊は高いからなかなか買えません、だいたいブックオフです、お茶はミネラルウォーターを沸かして飲みます、You Tubeは楽しいですね、近いうちに軽井沢の温泉旅館「星のや」に泊まる予定です、ボーナスのある職場で働きたいです。わたしたちはことごとく、選択の余地無く資本主義の大渦のなかに放り込まれている! ええ、疲れてますが別にそのせいじゃありません。
ビーンズ
2006年6月7日 われはうたえどもはっぽうやぶれわたしの従妹は知的障害者だから
焼いた
よだれをたらす
豆が好き。
焦点のさだまらない目が
よだれ
台所に立ち、全存在をかけて
豆
をフライパンにあける。
ギリシア彫刻が美の象徴ならば、
彼女は醜い。
ゆらゆらとほのお
ほのおよだれ豆、
の上で撥ねる豆。パチパチ。
それから もうよだれ、よだれ
よだれ
よだれだ
らだらだ
ほんとうに
ほんとうに
塗られているのだ、とくべつな何かによって
小舟が
沈む
不具へとさしむけて――
死はすぐに訪れない
豆とともに、豆のそばに、豆のかわりに。
全きいいことだ
彼女といっしょに
豆が爆ぜる音を食べる よ
だれ?
わたし
そう思うよ
全きいいことだ
そうでしょう?
さあ、どうかしら、
豆をもっと、豆、豆。
焼いた
よだれをたらす
豆が好き。
焦点のさだまらない目が
よだれ
台所に立ち、全存在をかけて
豆
をフライパンにあける。
ギリシア彫刻が美の象徴ならば、
彼女は醜い。
ゆらゆらとほのお
ほのおよだれ豆、
の上で撥ねる豆。パチパチ。
それから もうよだれ、よだれ
よだれ
よだれだ
らだらだ
ほんとうに
ほんとうに
塗られているのだ、とくべつな何かによって
小舟が
沈む
不具へとさしむけて――
死はすぐに訪れない
豆とともに、豆のそばに、豆のかわりに。
全きいいことだ
彼女といっしょに
豆が爆ぜる音を食べる よ
だれ?
わたし
そう思うよ
全きいいことだ
そうでしょう?
さあ、どうかしら、
豆をもっと、豆、豆。
すませなければいけないささいな仕事があったので昨日は遅くまで起きていたのだが、眠気がねっとりとまとわりついてちっとも頭が働かない。仕方なく今日の朝に残りを片付けることにして、目覚まし時計をいくつもセット(低血圧気味で朝の弱いわたしにあわせて、起きなくてはならない時刻の一時間前に鳴るように)し、ベッドにもぐりこんだのだった。
夢のなかで、わたしはバスを待っていた。時間より少し早く到着したバスに乗り込むと、乗客はわたしひとりだけ。バスが静かに走り出す。窓の外は夜のようでも、見慣れた風景のようでもある。どちらまでいかれるのですか? 感じの良い声で運転手が聞く。終点まで…? わたしは自信なく、そう答える。終点まで、それがあなたの向かいたい場所なんですね? わたしはそこにあなたを送り届けます、それがわたしの仕事ですから。確かに運転手はそのようにいい、わたしはそれをとても安心して聞いている。そのあとに内容のさだかではない話をいくつかし、いつのまにか眠ってしまうと、起きてください、着きましたよ、と運転手の声がして、夢のなかで目を覚ますと同時に、夢から覚醒したのだった。よだれを垂らしていた。
携帯電話を見ると、4:59、目覚ましをかけた時間の1分前。しかも、いつもならそれからからだを起こすまで2,30分はかかるだろうに、すぐに机の前に座り、昨日やりかけたところから仕事をはじめることができたおかげで、こうして日記まで書く余裕すら。
夢の話はとりとめもなく、あるいはこういうことはよくある話かもしれず、わざわざ書くようなことでもないけれど、わたしにとってははじめての体験だったのでちょっと興奮してしまい、つい日記を書きはじめたら、もうこんな時間。けっきょくあわただしく家を出ることになるだろう。またあのバスに乗れたらいい。
夢のなかで、わたしはバスを待っていた。時間より少し早く到着したバスに乗り込むと、乗客はわたしひとりだけ。バスが静かに走り出す。窓の外は夜のようでも、見慣れた風景のようでもある。どちらまでいかれるのですか? 感じの良い声で運転手が聞く。終点まで…? わたしは自信なく、そう答える。終点まで、それがあなたの向かいたい場所なんですね? わたしはそこにあなたを送り届けます、それがわたしの仕事ですから。確かに運転手はそのようにいい、わたしはそれをとても安心して聞いている。そのあとに内容のさだかではない話をいくつかし、いつのまにか眠ってしまうと、起きてください、着きましたよ、と運転手の声がして、夢のなかで目を覚ますと同時に、夢から覚醒したのだった。よだれを垂らしていた。
携帯電話を見ると、4:59、目覚ましをかけた時間の1分前。しかも、いつもならそれからからだを起こすまで2,30分はかかるだろうに、すぐに机の前に座り、昨日やりかけたところから仕事をはじめることができたおかげで、こうして日記まで書く余裕すら。
夢の話はとりとめもなく、あるいはこういうことはよくある話かもしれず、わざわざ書くようなことでもないけれど、わたしにとってははじめての体験だったのでちょっと興奮してしまい、つい日記を書きはじめたら、もうこんな時間。けっきょくあわただしく家を出ることになるだろう。またあのバスに乗れたらいい。
You Ain’t Goin’ Nowhere
2006年5月20日 書かれえぬ書物の焚焼
「この世界は、意味があるともいえぬし、ないともいえぬ。世界は、ただ単にそこに在る。いずれにしてもそこに在る、ということこそ、一番目立つ特色だ。すると急に、この明証がわれわれを強く搏つ。なぜならその明証に対してわれわれはどうしようもないからだ。(……)それ故、(心理的、社会的、機能的)意味づけの世界に代って、もっと堅固な、もっと直接的な世界を建造しようとしなければなるまい。そのような世界の現存によって、はじめて事物や仕種が自己主張をするからである。(……)未来の小説のこのような世界の中では、仕種や事物は、なにものかである以前に、そこに存るもの、になる」(『未来の小説への道』)
などという言葉をひくまでもなく、事物が存在しているということ、できごとがそのようにただ起こったこと、それだけで世界は充分だということ、どころかそもそもそれ以上も以下もないということ、を了解してはいる。それらを忘れるか気付かないふりをするかして、たわむれに言葉とイチャイチャするのは不実なふるまいだと考えもする。考えもするけれど、わたしは思う、あなたが決して語らなかった言葉は、わたしたちのものだったはずの過去と未来は、どこにいったのだろう? わたしたちのあいだに起こらなかったこと、起こるかもしれなかったのに起こらずじまいだったことは、どこに? わたしたちのあいまいな親しさからへだたれた親愛なる死者たちは、どこにいったの? そのように、わたしは思う、けれど、思うまでもなく――どこにも。どこにもいかないものは、どこにもいかない。
などという言葉をひくまでもなく、事物が存在しているということ、できごとがそのようにただ起こったこと、それだけで世界は充分だということ、どころかそもそもそれ以上も以下もないということ、を了解してはいる。それらを忘れるか気付かないふりをするかして、たわむれに言葉とイチャイチャするのは不実なふるまいだと考えもする。考えもするけれど、わたしは思う、あなたが決して語らなかった言葉は、わたしたちのものだったはずの過去と未来は、どこにいったのだろう? わたしたちのあいだに起こらなかったこと、起こるかもしれなかったのに起こらずじまいだったことは、どこに? わたしたちのあいまいな親しさからへだたれた親愛なる死者たちは、どこにいったの? そのように、わたしは思う、けれど、思うまでもなく――どこにも。どこにもいかないものは、どこにもいかない。
電車が乗り換えの駅に到着し、席を立って開いたドアから降りようとしたときに、ふと車内の中吊り広告が目をかすめ、「狂牛病の牛を処分」、という文字だけを読むことができ、そのときのわたしは頭が弱っていたので、処分が決まっている狂牛病の疑いのある牛たちや、鳥インフルエンザに感染した可能性のある鶏たちをすべてひきとって、そのような危険がある畜肉でさえも口にできない、お腹を空かせためぐまれないこどもたちに寄付できたらなどと、すこし頭を働かせれば倫理的に問題があるのが明白なことを考えてしまい、そんな自分への嫌悪と呆れから、それらの動物たちをひきつれて人里離れた場所で楽しく暮らしたい、と思いました。
友人幾人かで他愛ない話に花を咲かせていたら、そのうちのひとりが「ベタだけどこのアルバムすごくいいから聞いてみてよ」と画像にあげたCDをわたしに差し出したので「あ、聞いたことあるよ、かなりいいよね、泣けるよ」と返答すると、彼女はあろうことか「いいでしょいいでしょイーデス・ハンソン」とのたまってしまい、唖然としたわたしたちの顔を見て、苦し紛れなのかボードレールがいうところの活動、戦闘の守神/デーモンにそそのかされたのか、つづけて彼女は「肉は憎い」と早口で吐き捨て、その何ともいえない、困惑だけが募っていくような発言とやんわりと脳が蕩けていくような場の雰囲気がわたしにはとても面白かったんだけれど、こうして文章で再現してみれば寒さばかりが伝わりますね。悔しい。
以前から心のすみにひっかかっているささいな事柄があったはずで、それについてまずはグーグルあたりで検索してみよう、と何度か考えたことがあったのだが、別に急ぐようなことでもなし、時間のあるときに、とそのたびに先延ばしにしていたら、肝心の事柄が何だったのか、さっぱり忘れてしまったのだった。
それだけならまだしも、さきほどパソコンを立ち上げた際にもその事柄の断片が頭に浮かんで、そうだ思い出した早速調べなきゃ、と思っているあいだにヤフーニュースなどに気をとられ、「大食い界に衝撃!ギャルソネ誕生!!」なんて記事に目をとおし、ギャルソネ氏の写真をさしたる興味もなくしげしげと眺めているうちに、たった2,3分前のことだったにもかかわらず、またもやすっかり失念してしまった。
このじれったい感覚は、めざめた刹那には覚えている夢の内容が、つぎの瞬間には記憶からことごとく脱落してしまい、二度と掬いあげることができないのに似ていて、そのあとしばらく記憶の再現に努めたのだけれど、いまになっても何だったのか思い出すことができないでいる。
別に思い出せなくても死ぬわけじゃなし、いずれまた必要に迫られでもすれば、その事柄がわたしの頭を訪れてくれるだろうから、よくあること、とみずからを慰めてみたところで、このところ似たようなことがこれまでになくたびたびあったような気がして、この日記なども、書いているそばから書くことを忘れてしまうていたらくで、思考能力の減退いちじるしく、わたしが書きたいことはもっとたくさんの、色とりどりの、微細な感情のちょっとした変化の、なんて、言葉にならぬもどかしさにモジモジしながら欠伸をかさねる。もしくは、やがて来るであろうすべてを飲み込む忘却の闇を思い、子どものようにおびえている。
それだけならまだしも、さきほどパソコンを立ち上げた際にもその事柄の断片が頭に浮かんで、そうだ思い出した早速調べなきゃ、と思っているあいだにヤフーニュースなどに気をとられ、「大食い界に衝撃!ギャルソネ誕生!!」なんて記事に目をとおし、ギャルソネ氏の写真をさしたる興味もなくしげしげと眺めているうちに、たった2,3分前のことだったにもかかわらず、またもやすっかり失念してしまった。
このじれったい感覚は、めざめた刹那には覚えている夢の内容が、つぎの瞬間には記憶からことごとく脱落してしまい、二度と掬いあげることができないのに似ていて、そのあとしばらく記憶の再現に努めたのだけれど、いまになっても何だったのか思い出すことができないでいる。
別に思い出せなくても死ぬわけじゃなし、いずれまた必要に迫られでもすれば、その事柄がわたしの頭を訪れてくれるだろうから、よくあること、とみずからを慰めてみたところで、このところ似たようなことがこれまでになくたびたびあったような気がして、この日記なども、書いているそばから書くことを忘れてしまうていたらくで、思考能力の減退いちじるしく、わたしが書きたいことはもっとたくさんの、色とりどりの、微細な感情のちょっとした変化の、なんて、言葉にならぬもどかしさにモジモジしながら欠伸をかさねる。もしくは、やがて来るであろうすべてを飲み込む忘却の闇を思い、子どものようにおびえている。
枯れ野
2006年5月7日 われはうたえどもはっぽうやぶれちかごろ、詩を書かなくなった
ほんとうに
さまざまなものが目減りし
出歩くことも少なくなった。
枯れ野
をひとりめぐり歩く老人の
ひざのきしみ
魚を焼いた、
脂で汚れたガスコンロ
を掃除していたら
わたしのなかのかつての狂える老人が
もうどこにもいなくなっていることに
いまさらになって
愕然
ストーブから灯油を抜いておく
詩は
わたしのなかで
きっと死んでしまった
老人は――
だから
こんなことは何でもなくて
生活のへりにはいつも
眠気があり
あてどない性欲と
すべらかなひとつづきの安心。
それも悪くはないが
詩はいつも
わたしとともにあったと思う。
これまでも
むろんこれからも。
ただずっと
死んだままで
枯れ野は
暮らすのに適していない
きっと
詩を書くにも適していない
嵐に寒がるリア王に似ていた
狂える老人は
火のつかないストーブ
わたしは
あしもとからのぼってくる寒さ
ぐずぐずしている
詩はいつも
眠気
枯れ野を夢見て
死んだままで
ほんとうに
さまざまなものが目減りし
出歩くことも少なくなった。
枯れ野
をひとりめぐり歩く老人の
ひざのきしみ
魚を焼いた、
脂で汚れたガスコンロ
を掃除していたら
わたしのなかのかつての狂える老人が
もうどこにもいなくなっていることに
いまさらになって
愕然
ストーブから灯油を抜いておく
詩は
わたしのなかで
きっと死んでしまった
老人は――
だから
こんなことは何でもなくて
生活のへりにはいつも
眠気があり
あてどない性欲と
すべらかなひとつづきの安心。
それも悪くはないが
詩はいつも
わたしとともにあったと思う。
これまでも
むろんこれからも。
ただずっと
死んだままで
枯れ野は
暮らすのに適していない
きっと
詩を書くにも適していない
嵐に寒がるリア王に似ていた
狂える老人は
火のつかないストーブ
わたしは
あしもとからのぼってくる寒さ
ぐずぐずしている
詩はいつも
眠気
枯れ野を夢見て
死んだままで
細雪
2006年5月6日 書かれえぬ書物の焚焼
「それでも家を出た時分には人顔がぼんやり見分けられる程度であったが、蛍が出るという小川のほとりへ行き着いた頃から急激に夜が落ちてきて、……小川といっても、畑の中にある溝の少し大きいくらいな平凡な川がひとすじ流れ、両岸には一面に芒のような草が長く生い茂っているのが、水が見えないくらい川面に覆いかぶさっていて、最初は一丁ほど先に土橋のあるのだけが分かっていたが、……蛍というものは人声や光るものを嫌うということで、遠くから懐中電灯を照らさぬようにし、話声も立てぬようにして近づいたのであったが、すぐ川のほとりへ来てもそれらしいものが見えないので、今日は出ないのでしょうかとひそひそ声で囁くと、いいえ、たくさん出ています、こっちへいらっしゃいと云われて、ずっと川の縁の叢の中へはいり込んでみると、ちょうどあたりが僅かに残る明るさから刻々と墨一色の暗さに移る微妙な時に、両岸の叢から蛍がすいすいと、すすきと同じような低い弧を描きつつ真ん中の川に向って飛ぶのが見えた。……見渡す限り、ひとすじの川の縁に沿うて、どこまでもどこまでも、果てしもなく両岸から飛び交わすのが見えた。……それが今まで見えなかったのは、草が丈高く伸びていたのと、その間から飛び立つ蛍が、上の方へ舞い上がらずに、水を慕って低く揺曳するせいであった。……が、その、真の闇になる寸刻前、落ち凹んだ川面から濃い暗黒が這い上がって来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動くけはいが視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曳いているようで、眼をつぶってもありありと見える」(p.601〜602,『細雪』)
愛の完成
2006年5月2日 書かれえぬ書物の焚焼
ムージルの「愛の完成」を読んだ。
「幾日か前の晩のこと、あなたがあたしに接吻したとき、あたしたちの間に何かがあったのを、あなたはわかっていたかしら。あたしの心にふと何かが浮かんだの。ちょうどあのとき。どうでもいいようなことが。でも、それはあなたではなかった。そしてなにもあなたでなくてもかまわないということが、あたしには急につらくなったの。あたしはあなたにそれを言えなかった。初めはあたし、あなたがそれを知らないくせにあたしのすぐそばにいると思っている様子なので、微笑まずにはいられなかった。ところがそれから、あなたにそのことをもう言いたくなくなったの。あなたが自分でそれを感じとれないものだから、あなたのことが憎らしくなったの。それで、あなたの優しさはあのときわたしを見つけられなかったわけなのよ。といっても、あたしと別れて、とあなたにたのむ気はとてもなかったわ。なぜって、現実には、それはなんでもなかったのですもの。現実には、あなたはわたしのそばにいたのよ。だけどそれと同時に、ぼんやりとした影ほどにあたしは感じたの、あなたから離れても、あなたなしでも生きられるように」(p.14,『愛の完成,静かなヴェロニカの誘惑』)
夫を愛しく思えば思うほど、愛に誠実であろうとすればするほど、いま浸っている愛に不安を覚え、まったく場違いなような、何もかもを嘘臭く感じてしまうような、そんな気持ちをいだいてしまう女性が主人公の、小説。
彼女はタイトルのとおり愛の完成を夢み、のこりなく愛のなかに溶けこみ、愛するひととの完全な融合をもとめようとするのだが、そう望むみずからがそのように欲望してしまっているという点において、すでにして融和からへだてられてしまっていることに苦しむ。あるいは上の言葉のように、こちらが相手を思うようには決して相手は思わないし、逆もそうであるにもかかわらず、そこ(現実)にそのようにふたりが存在することこそが愛を、ふたりの関係を可能にしてしまっているばかりか、愛を限界づけていることに苦しむ。
しかしそれが愛の宿命ではないか。そもそも愛など、そう名付けることで飼いならされてしまった(究極的にはみずからのうちにとどまるような)心の状態にすぎないのではないか。社会が無数の契約関係のうちにひとを参入するように仕向けながら循環しつづける壮大なフィクションだとすれば(家族や、友情や、名前や、国家や、喪の作業や、エトセトラ、エトセトラ…)、愛こそそれらをつなぎとめる紐帯の役割を果たす、フィクションの最たるものであって、それを離れてはひとときたりともかたちを保てないのではないか。
だが、彼女はそんなおざなりの愛の定義に納得しない。納得できるわけもない。
そもそも愛が上記の定義にとどまるだけのものだとしたら、そんなものは愛といえるだろうか。愛こそが、ある種の真実さをそなえた愛だけが、そのようなフィクションのぶ厚いころもを破ることを可能にするだろうし、みずからのうちにこもりがちなわたしたちというかそけき主体を、世界の方へ、さむざむしくぶっきらぼうな世界の方へと、さしむけてくれるのではないか。
彼女にとって愛するということは、はじめから何よりそういうものだったはすで、ゆえに、相手との完璧な調和を望んだのだった。
ではそうだとすると、次なる問題は、いかにして愛を完成させるか、どのように相手との融合を達成するか、ということになる。仮にそんなことが可能であるとして。それを彼女は、一見しておかしな方法をとることで、果たそうとする――よりにもよって、他の男との姦通をとおして。
夫への愛が嵩じたあまり、他の男と通じあう、それって本末転倒もいいところじゃないか、そうも思う。訳者の古井由吉も、「愛する人との、その愛を完成させるため、その愛の現在性、事実性、その偶然性を超えていま一度、完全な相互性の中で結びつくために、この肉体を外へ投げ出す、という発想にまで至ると、読者は困惑を通り越して、ただあきれながめるかもしれない」と解説で綴っている。だがそのすぐあとに「これによって作品は、姦通小説を超えてしまう。有限の関係から、無限域に踏み入る」とも。
これはどういうことか。どうして愛を完成させるために、肉体を投げ出さなくてはならないのか。ここにこそ、この小説の可能性の中心があると思うのだけれど、あまりに難解な作品なので、わたしにはすっかりは解らない。だが、これは単純な逆説ではない、ということは解る。
おそらく――わたしの問題意識にひきつけて読むならば――愛するということの究極(もしかしたらその消失点)は、たがいをむすびつけるものがまったくないかぎりで、それこそ定言命法のかたちで、愛することなのだろう。いいかえれば、愛のもうひとつの(一般にそうであると思われているところの)面である、酷薄な現実世界を色鮮やかにしてくれるフィクションとしての、いってみれば愛のやさしさ、愛の嘘を破壊して、なお愛のなかにあること。
そのために彼女は、決然と、「そのようでもありえた」状況に身をまかせる必要があった。偶然を愛さなければいけなかった。あなたがいるために、わたしがいるために、ふたりがいるために、の絶対的な否定のかなたにあって、すわりのいい永遠などという言葉ではあらわすことのできない、虚無のなかで、虚無とともに愛さなければいけなかった。のではないか。そのように思う。
「だが彼女は部屋のまん中で床に横たわったままでいた。いま一度、何かが彼女を抑えつけた。自分自身についてのおぞましい感じが、昔と同じ感じが。何もかも過去への逆もどりにすぎないのかもしれないという思いが、刃物の一閃のように、彼女の四肢の腱を切断した。いきなり彼女は両手を上げ、助けて、あなた、助けて、と心の内で叫んだ。そしてそれが真実の叫びであることを感じた。しかし、そっとなぜてかえすひとつの思いがのこっただけだった。≪あたしたちはお互いをめざしてやってきました。空間と年月をひそやかに通り抜けて。そしていま、あたしはつらい道をとってあなたの中へ入りこもうとしているのです≫と」(p.88)
困難な道ゆきだと思う。そして、結末を読むかぎり、きっとその「つらい道」=虚無は、愛そのものとは別のものなのかもしれないのだった。
長いよ。
「幾日か前の晩のこと、あなたがあたしに接吻したとき、あたしたちの間に何かがあったのを、あなたはわかっていたかしら。あたしの心にふと何かが浮かんだの。ちょうどあのとき。どうでもいいようなことが。でも、それはあなたではなかった。そしてなにもあなたでなくてもかまわないということが、あたしには急につらくなったの。あたしはあなたにそれを言えなかった。初めはあたし、あなたがそれを知らないくせにあたしのすぐそばにいると思っている様子なので、微笑まずにはいられなかった。ところがそれから、あなたにそのことをもう言いたくなくなったの。あなたが自分でそれを感じとれないものだから、あなたのことが憎らしくなったの。それで、あなたの優しさはあのときわたしを見つけられなかったわけなのよ。といっても、あたしと別れて、とあなたにたのむ気はとてもなかったわ。なぜって、現実には、それはなんでもなかったのですもの。現実には、あなたはわたしのそばにいたのよ。だけどそれと同時に、ぼんやりとした影ほどにあたしは感じたの、あなたから離れても、あなたなしでも生きられるように」(p.14,『愛の完成,静かなヴェロニカの誘惑』)
夫を愛しく思えば思うほど、愛に誠実であろうとすればするほど、いま浸っている愛に不安を覚え、まったく場違いなような、何もかもを嘘臭く感じてしまうような、そんな気持ちをいだいてしまう女性が主人公の、小説。
彼女はタイトルのとおり愛の完成を夢み、のこりなく愛のなかに溶けこみ、愛するひととの完全な融合をもとめようとするのだが、そう望むみずからがそのように欲望してしまっているという点において、すでにして融和からへだてられてしまっていることに苦しむ。あるいは上の言葉のように、こちらが相手を思うようには決して相手は思わないし、逆もそうであるにもかかわらず、そこ(現実)にそのようにふたりが存在することこそが愛を、ふたりの関係を可能にしてしまっているばかりか、愛を限界づけていることに苦しむ。
しかしそれが愛の宿命ではないか。そもそも愛など、そう名付けることで飼いならされてしまった(究極的にはみずからのうちにとどまるような)心の状態にすぎないのではないか。社会が無数の契約関係のうちにひとを参入するように仕向けながら循環しつづける壮大なフィクションだとすれば(家族や、友情や、名前や、国家や、喪の作業や、エトセトラ、エトセトラ…)、愛こそそれらをつなぎとめる紐帯の役割を果たす、フィクションの最たるものであって、それを離れてはひとときたりともかたちを保てないのではないか。
だが、彼女はそんなおざなりの愛の定義に納得しない。納得できるわけもない。
そもそも愛が上記の定義にとどまるだけのものだとしたら、そんなものは愛といえるだろうか。愛こそが、ある種の真実さをそなえた愛だけが、そのようなフィクションのぶ厚いころもを破ることを可能にするだろうし、みずからのうちにこもりがちなわたしたちというかそけき主体を、世界の方へ、さむざむしくぶっきらぼうな世界の方へと、さしむけてくれるのではないか。
彼女にとって愛するということは、はじめから何よりそういうものだったはすで、ゆえに、相手との完璧な調和を望んだのだった。
ではそうだとすると、次なる問題は、いかにして愛を完成させるか、どのように相手との融合を達成するか、ということになる。仮にそんなことが可能であるとして。それを彼女は、一見しておかしな方法をとることで、果たそうとする――よりにもよって、他の男との姦通をとおして。
夫への愛が嵩じたあまり、他の男と通じあう、それって本末転倒もいいところじゃないか、そうも思う。訳者の古井由吉も、「愛する人との、その愛を完成させるため、その愛の現在性、事実性、その偶然性を超えていま一度、完全な相互性の中で結びつくために、この肉体を外へ投げ出す、という発想にまで至ると、読者は困惑を通り越して、ただあきれながめるかもしれない」と解説で綴っている。だがそのすぐあとに「これによって作品は、姦通小説を超えてしまう。有限の関係から、無限域に踏み入る」とも。
これはどういうことか。どうして愛を完成させるために、肉体を投げ出さなくてはならないのか。ここにこそ、この小説の可能性の中心があると思うのだけれど、あまりに難解な作品なので、わたしにはすっかりは解らない。だが、これは単純な逆説ではない、ということは解る。
おそらく――わたしの問題意識にひきつけて読むならば――愛するということの究極(もしかしたらその消失点)は、たがいをむすびつけるものがまったくないかぎりで、それこそ定言命法のかたちで、愛することなのだろう。いいかえれば、愛のもうひとつの(一般にそうであると思われているところの)面である、酷薄な現実世界を色鮮やかにしてくれるフィクションとしての、いってみれば愛のやさしさ、愛の嘘を破壊して、なお愛のなかにあること。
そのために彼女は、決然と、「そのようでもありえた」状況に身をまかせる必要があった。偶然を愛さなければいけなかった。あなたがいるために、わたしがいるために、ふたりがいるために、の絶対的な否定のかなたにあって、すわりのいい永遠などという言葉ではあらわすことのできない、虚無のなかで、虚無とともに愛さなければいけなかった。のではないか。そのように思う。
「だが彼女は部屋のまん中で床に横たわったままでいた。いま一度、何かが彼女を抑えつけた。自分自身についてのおぞましい感じが、昔と同じ感じが。何もかも過去への逆もどりにすぎないのかもしれないという思いが、刃物の一閃のように、彼女の四肢の腱を切断した。いきなり彼女は両手を上げ、助けて、あなた、助けて、と心の内で叫んだ。そしてそれが真実の叫びであることを感じた。しかし、そっとなぜてかえすひとつの思いがのこっただけだった。≪あたしたちはお互いをめざしてやってきました。空間と年月をひそやかに通り抜けて。そしていま、あたしはつらい道をとってあなたの中へ入りこもうとしているのです≫と」(p.88)
困難な道ゆきだと思う。そして、結末を読むかぎり、きっとその「つらい道」=虚無は、愛そのものとは別のものなのかもしれないのだった。
長いよ。