このテーブルから外を見渡せる。だから雷が光っているのが見える。あなたとわたしはひさしぶりに顔を合わせている。なので、観葉植物がクーラーからの風に揺られている。夕立が降りだす。だからテーブルのうえの料理に使われているトマトは福島県南会津郡、レタスは長崎県南佐久郡、キャベツは群馬県の利根郡で採れたものだという。他のものは忘れた。そういうわけで、雨はますます激しくなる。だからあなたの話はわたしには関係のないことのように思える。店先に置かれた自転車が濡れている。アスファルトにはねかえる雨水ばかり見てしまう。それだから、ますます激しくなってきたね、そういえば台風が、とあなたはいう。南会津郡のトマトをあなたは口にふくんで咀嚼する。それでわたしはまたもやトイレに立ちたくなる。ジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」のことなんかを不意に思う。ふたりのあいだに置かれたコーヒー、紅茶のカップ。行き過ぎる自動車のタイヤの回転。あなたがかつて語っていた、歴史に連なりたいという大それた欲望。だからストレス耐性ばかり高くなった、とあなたが話しているのを聞いている。視力が悪いわたしには、街灯の下やタクシーのヘッドライトに照らされたところだけ、雨が降っているようにも見える。だからどうしたの? だからきみは、相変わらずきみは、そんな感じなんだね。だからどうしたの? だからこうやって話していても、もうかつてのようではないんだ。だからどうしたの? だから? だからどうしたっていうの? ねえ、あなたの席からは見えなかっただろうけど、さっき外を傘もささずに女のひとがひとり歩いてた。そのことをわたしは、あなたにすぐには告げなかった。だからって、それがどうしたっていうの? ここから、雷が光っているのが見える。だからわたしたちはかつてのようではなく、ましてや歴史だなんて。

 すっかり冷めてしまった紅茶。店先の自転車もどこかに行ってしまった。だからこのまま雨が止まず、わたしたちはついに水の底に沈んで、充たされた水のなかで目をどうにか開けると、どこからか迷いこんできた魚たちの群れが、店の明かりに照らされている。海中みたいな緑がかった薄暗さのなか、スカートのすそがゆらゆら揺らめいている。
 
 部屋のすみに積まれた、あのこから借りっぱなしのハードカバー(上下2冊)。ともだちの家へ遊びにいったついでに調達してきてそのままのマンガ(8冊、以下続刊)。ケースだけあって中身は知り合いに貸したまま行方不明のお気に入りだったCD(といっても昔付き合っていたひとが置き忘れていったもの)。仲違いをしてふたりとも返しそびれてしまった、おたがいの心の一冊(ちなみにわたしが貸したのは文庫本だけど彼女は全集一冊)。あー返す返すと生返事をくりかえされたあげく帰ってこなかったDVDボックスセット(いつか家までおしかけてやる)。
 わたしたちは借りパクの名人だから、かつてのバイト先、サークル、ゼミ、それらの場所で行ったり来たりして、そのまま帰属者のもとにもどらずに滞留をつづけているものの、なんと数多いこと(あらら卒論指導教授の研究室の本まで)。

 もうとんと聴かなくなってしまったCDや、背表紙を失くしてしまった文庫たちを介してわたしが彼/女らを思いだすように、彼/女らもときたまはそれらを気に留め、そのうち100回に1度くらいはわたしを思いだすだろうか。
 滞留、あるいは漂流をつづけているもの。持ち主と付き合いがなくなっても、それらはそこにある。わたしのもとに、彼/女らのもとに。そしてそれが帰属しているあるじはもちろんわたしではない、彼/女でもない。誰でもないのだ、もう。

 どうか、それらがわたしたちのもとを離れて、めぐりめぐってわたしたちの愛のこやしになりますように(そしてなるべくならわたしのもとになるべく多くのものがめぐってきますように。所有権は主張しないので)。
 
 僕が社会人になって最初に配属されたのが週刊誌でねえ、はじめのうちは一生懸命仕事してたんだけど、そりゃあヤクザな商売だから、そのうちに悪い遊びにはまっちゃって、全然家にも帰らないで、場末のね、最底辺のひとたちが管を巻いてる飲み屋に入り浸っては、女とね、もうこれがどうしようもない女とね、まあ何ていうか、一日中過ごしたりしたんですよ、ああ僕ね、焼酎ください焼酎、梅ジュース入れたのお願いします、それでいつだったか、目を覚ましたら全然知らない女の家にいてねえ、隣を見たら、その女の顔がまたひどかった! ブサイクなのもそうなんだけど、もうそこには神も仏もないんだねえ、地の底なんですよ、光がまったく射さないところでもひとは生きてるんだねえ、そんなふうにいったらその女に失礼だけどね、仕方ないんですよほんとなんだもの、そりゃあもうひどいんだから、あなたたちには想像付かないだろうねえ、もう40年近く昔の話だから、とにかくそのときには僕ほんと悲しくなっちゃってね、どうがんばっても這い上がれないところまで来ちゃったな、と思い込まされたんだなあ、でもまたねえ、女たちがやさしいんですよ、最底辺の女たちのそりゃあやさしいことよ、もう一杯、適当なのいただけますか、同じの? ええ、ええ、じゃあそれでいいです、ええ、梅ジュースのやつね、お願いします、それからは仕事場にもあまり顔出さないってんで、上司から実家に電話があったりしてね、いよいよ俺もこの女たちと生涯を過ごすことになるのだろうか、なんて考えていたときにねえ、出会ったんですよ! セリーヌに、『夜の果ての旅』に! 彼の書く世界はまったくどうしようもなくてねえ、蛆虫みたいな、最下層の、屑そのものの人間を描いてるでしょう? そのセリーヌにね、僕はあのとき救われたんだなあ、セリーヌが、僕に生きる勇気をくれたんですよ、おおげさでも何でもなくね、セリーヌによって、人間のもっとも良質な知性によって、僕はあの心やさしき女たちに別れを告げたんですよ、かっかっか、だからあなたたちもね、絶望することないですよ、セリーヌが僕を救ってくれたように、必ずや文学が、あなたたちのことを救ってくれるんだから、いやあ、あなたたちは大丈夫! かっかっか。

 などとわたしたちに向けて放言しまくっていた、かつて編集者現在おじいちゃんのWさんについて、ジュンク堂書店で開催している大江健三郎書店に置いてあるセリーヌ全集を手にとった際に思い出し、近頃会っていないけれど元気にしているかしら、メールでも送ってみようかな、と考えつつグーグルで彼の名前を検索してみると、彼の住んでいる町で、彼が町長に立候補した、という記事を見付け、びっくり仰天、現職の町長以外に立候補者がいない状況を見かねて、「無投票では、民主主義が死んでしまう。このままでいいんですか。行動を起こさなければ町は死んでしまいますよ」と訴え、無所属でみずからが出馬することにしたという。つづけて他の記事を検索してみると、有志の町民たちが手作りの選挙公報や手弁当を用意して応援したのだけれど、健闘むなしく、9000票対4700票で敗れてしまったとのこと。なんともはや。

 Wさんは飄々とした好々爺で、文学に魂を捧げていて、いまはもう存在しない名だたる文学者たちと渡りあい、優れた小説をいくつも文芸誌に掲載し、日本の文学を陰から支えてきたひと(たぶん)。なのにものすごく適当で、おじいちゃんになって暇を持てあまし、わたしたちなんかの相手をしてくれ、いつもわたしたちを元気付けてくれる、だけどとことん適当な、そんなひと。

 わたしの知っているひとがわたしの知らないところで理不尽な世界に立ち向かっていること、立ち向かいながらも力及ばず倒れてしまう事実を目の当たりにし、ああ、そうだよなあ、しっかりしなきゃ、と殊勝な気持ちになって、ああセリーヌ読みたいなあと部屋を探せば、そういえばずっと前に後輩の女の子に貸したまま。とりあえずは彼女の家を襲撃に行くことに決めて、わたしにとってのびっくりニュースを処理することにした。文学はわたしたちを救ってくれるかなあ。
 
 明るく生きたいですね。
 
 わたしなどはもっぱら貧弱な思想しか持ち合わせていないので、どこへでかけて行ってもたいした収穫も得られず、誰に顔を合わせても躍らない心もろとも恥をかき、それらが行き過ぎたあとにわたしのもとに残るものの少なさに驚きながらも、そんななけなしの成果でさえも早晩どこかに置き忘れてしまうだろうから、あげくのはてはどうでもいいのだな、わたしはどうでもいいのだ、持ちものらしい持ちものは何もないのだし、と居直って日々をうつろにやりくりしていることもまた、およそ粗末な思想しか身についていないことを証しだてて、そんなわたしだから、やっぱりどうでもいいのだろう、そう観念してまじめに生きていけたらいいのだけれど、ねえ、まったく、うふふ、あはは、なんて、今日もどうでもいいふりをしている。
 
 用たる用もなしにおおきな駅まで電車を乗り継いで、改札を抜けてすぐの、コンコースの全体を見渡せるカフェの窓際の席に座り、朝服用するのを忘れていた花粉症の薬を飲みくだし、本を広げながらも、返しそびれていたメールを打ってみたり、斜向かいのフラワーショップで花束を買っていく男性たちの様子を観察したり、ぼんやりと半分夢のなかにいたりしていたら、頭のなかでフィッシュマンズの「SEASON」が流れてきて、「忙しくて 会えないねえ だんだん暑くなってくよ/こんな季節を遊びたい 君をそばにおいて/風を呼んで 風を呼んで 君をそばに呼んで/季節の中を走りぬけて もうすぐ秋だね」と、改札を足早に抜けていくひとたちを見やりつつくちずさんでいると、歌のように、いつのまにやらもうあたりは秋になってしまったようで、と同時に行き逢うひとびとがめいめい歩調も向かう場所もたがえながらも、全体としてある方向へ、はるけき遠くへ抗いがたく押し流されていくような感じがしたのだけれど、それは気のせいなのだった。
 
 政治について口を閉ざすのはいけないこと。わたしの場合。
 でもそういったら芸術についてだって、生活のことだって、わたしはだいたい口を閉ざすどころか開いても益体ないことばかりこぼれていくばかりで、そも、わたしはいけない人間なのだから、と開き直ることがいちばん、いけないこと。でもいつの間にか、わたしはとてもいけない。いまさら、どこにもいけない。
 
 わたしたちのようなろくでなしはきっと20代の半ばは、地獄の季節をすごすことになるだろう、とは数年前から近しいひとたちのあいだでとりかわされた挨拶、合言葉のごときものであって、実際にそう遠くない将来を冷めた目で見据えてみればみるほど、どうしたって避けられそうもない無惨な事態が目前に迫っているように思えたし変わらずいまも思っているのだが、しかしこの軽口の裏には、地獄の季節は相応に艱難辛苦がふりかかるだろうが、それをやりすごすことができればのちにすばらしい収穫の時期がやってくるにちがいない、そして、おそらくわたしたちは地獄の季節をのりきることができるだろう、さらにいえば、もしかしたら地獄の季節でさえもやりかたひとつで楽しく、実りのあるものにできるような気さえする、だいじょぶだいじょぶ、Everything gonna be alright、かんらかんら、と高笑いして済ませてしまえるような根拠のない余裕、未来への希望があったはずだった。が。
 何がどうまちがったのか(いや、すべてはおそらくすこしの狂いもなく、必然的に)現実はすでにしてやはり、地獄の季節であった(到来するのが思っていたよりもちょっぴり早かった!)。氷河期(それもギュンツ期)であった。煉獄でなしに地獄であった。そこでは唯一の希望であるはずの未来さえ奪われている気がするのだった。

 わたしは、これをくぐりぬけることができるのかしら? できない気がする。仮にできたとて、そうしたらどこへたどりつくというのだろう? 地獄の季節をさもつまらないことのように放擲し武器商人として生計をたてたランボーのように、沙漠へと? みずからが生きるよすがであったはずの詩作さえどこかへうっちゃって。

 なんだかバカらしい。
 

アデュー

2006年3月18日 愛の未完成
 語ること。ひょっとして、もしかしたらその存在を告げることができるかもしれない実在=あなたに向けて語りかけること。わたしという掟の前にすでにして存在し、それがかなたに消え去った後にも存在しつづけるであろう世界に対して、言葉を――言葉のみを――つかって進んでいくこと。ひるがえっていえば、決して到達することのない他者に向かって限りなく開かれてあること。わたしのものでもありあなたのものでもあるような、時間や空間、出来事のすべてのなかを通り抜けてきた、すべての人の所有に向かって開かれているかもしれない言葉を媒介にして、他者の到来を過剰なまでに期待すること。そして、起こったことをいいあらわすただの一言さえ生み出すことのできない、それでいて起こったことを越えて、起こったかもしれないことを言い表してしまうことすらある、不自由で野蛮な言葉をつかって、起こったことについての証言を絶えず行うこと。語ること。そのようにあること。
 

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