騾馬
2013年9月17日 書かれえぬ書物の焚焼 コメント (1)
ヘミングウェイの「死者の博物誌」という短編のなかに、兵士たちが、頑健な騾馬たちを、行軍の邪魔になるという理由で脚を叩き折り、海に突き落とし溺死させる、という1シーンがあり、たまに思い出す。
思い出し方はその時々の気分だが、作中ではただのエピソードにしかすぎないし、わたしもふだんは忘れているし、思い出してもじきに忘れる。
だがこんな無惨な死に方はなく、このことだけを生涯考えたっていいのだ。騾馬の脚の骨を打ち砕く道具や、現場の有能な兵士から考案されたであろう、効率的に作業を遂行するための方法について。作業中に発せられる音や臭い。作業を終えたあとに交わされた会話。海へ落下していく騾馬たちと、生涯家畜として使役される騾馬たちとの差異。あるいは、わたしたちとの差異。騾馬のなりたちや、騾馬の未来。溺死に向かう騾馬の一匹一匹の苦痛の克明な描写。その描写と、騾馬の苦しみとの無関係さ。当日の天気と気温。潮風や土煙、水飛沫。作業が戦争に与えた影響。作業がそれに従事した兵士たちに与えた影響。作業が騾馬たちに与えた影響……
でもわたしは、そういうようにはできていない。文学の効果によって、たまにこうして思い出し、騒がない心とともに、何かしらのひっかかりを感じつつも、それをうまく言い表すこともできず、言い表せたとしてもそれが何になるということもないので、いずれ忘れそしてまた思い出し、そうして、死んでいく。それが何するものぞ。オリンピック何するものぞ。わたしの日々の生活何するものぞ。騾馬の苦しみの総和何するものぞ。
…………
男と騾馬がいた。男は騾馬に対して、お前はあらかじめ不妊であるから、生きている意味といえば働くことくらいしかない、かわいそうに、といつも優しげにたてがみを撫でるのだった。
騾馬も、男の言うことはもっともだと思ったが、同時に騾馬は未来を見通す能力を持っていたので、男が子を成さずに、駆り出された戦場で炸裂弾によりバラバラにされること、爆風で吹き飛んで鉄条網にこびり付いた男の死体を、顔を顰めた他の兵士によって回収されること、それらの未来を瞳に映しては、男も自分と大して変わらず、生きている意味といえば、身体の個々の部位が判別不能な破片となって、回収に際し他人の手を煩わせるくらいだ、と思うのだった。
騾馬はもちろん自身の未来も見通せたから、ひとつところに集められ、脚を叩き折られて海に沈められるという悲惨な死を予感することができた。したがってある晩、騾馬は渾身の力を込めて男を踏み殺し、それを咎める別の人間たちから一息に撲殺された。こうして男と騾馬は、騾馬の見通した未来と別の死を迎えることになった。
思い出し方はその時々の気分だが、作中ではただのエピソードにしかすぎないし、わたしもふだんは忘れているし、思い出してもじきに忘れる。
だがこんな無惨な死に方はなく、このことだけを生涯考えたっていいのだ。騾馬の脚の骨を打ち砕く道具や、現場の有能な兵士から考案されたであろう、効率的に作業を遂行するための方法について。作業中に発せられる音や臭い。作業を終えたあとに交わされた会話。海へ落下していく騾馬たちと、生涯家畜として使役される騾馬たちとの差異。あるいは、わたしたちとの差異。騾馬のなりたちや、騾馬の未来。溺死に向かう騾馬の一匹一匹の苦痛の克明な描写。その描写と、騾馬の苦しみとの無関係さ。当日の天気と気温。潮風や土煙、水飛沫。作業が戦争に与えた影響。作業がそれに従事した兵士たちに与えた影響。作業が騾馬たちに与えた影響……
でもわたしは、そういうようにはできていない。文学の効果によって、たまにこうして思い出し、騒がない心とともに、何かしらのひっかかりを感じつつも、それをうまく言い表すこともできず、言い表せたとしてもそれが何になるということもないので、いずれ忘れそしてまた思い出し、そうして、死んでいく。それが何するものぞ。オリンピック何するものぞ。わたしの日々の生活何するものぞ。騾馬の苦しみの総和何するものぞ。
…………
男と騾馬がいた。男は騾馬に対して、お前はあらかじめ不妊であるから、生きている意味といえば働くことくらいしかない、かわいそうに、といつも優しげにたてがみを撫でるのだった。
騾馬も、男の言うことはもっともだと思ったが、同時に騾馬は未来を見通す能力を持っていたので、男が子を成さずに、駆り出された戦場で炸裂弾によりバラバラにされること、爆風で吹き飛んで鉄条網にこびり付いた男の死体を、顔を顰めた他の兵士によって回収されること、それらの未来を瞳に映しては、男も自分と大して変わらず、生きている意味といえば、身体の個々の部位が判別不能な破片となって、回収に際し他人の手を煩わせるくらいだ、と思うのだった。
騾馬はもちろん自身の未来も見通せたから、ひとつところに集められ、脚を叩き折られて海に沈められるという悲惨な死を予感することができた。したがってある晩、騾馬は渾身の力を込めて男を踏み殺し、それを咎める別の人間たちから一息に撲殺された。こうして男と騾馬は、騾馬の見通した未来と別の死を迎えることになった。
彼女のもう産まれることのない卑屈なこども
2013年9月4日 愛の未完成 続き。
彼女についてわたしが理解した/しなかった幾つかについて。
さて、どうして思慮深いはずの彼女が、大して愛していない相手との結婚を急いだのか。それはおそらく、彼女が結婚制度や結婚相手、時間による状況の変化といった、自身の預かり知らぬ外的要因に、最早期待もロマンも抱いていないからなのではないか。今が望むような状態でないとして、結婚すれば、あの人と一緒にいれば、時間が経てば、あるいは状況が好転するかもしれない。しないかもしれない。むしろ、もっと悪くなるかもしれない。現在考えうる望ましい状態に、仮に未来において置かれたとしても、そのときも変わらずそれを望んでいるかどうかもわからない。いま・ここを離れてしまっては何もわからない。
それよりは、こどもが欲しいという現在の自身の目的を成就させるために自分がどうすれば良いか考え、機がめぐってきたらいっそ何も考えず最短の道を全力疾走すること。目的のためなら他のものごとはすべて手段と割り切って、ことを成したら成したで不要な後悔などせず、手に入れたもののなかでやれることをやること。これである。
思い立ってもなかなかできることではない。何とも潔いことよなあ。上記のような覚悟はわたしにもっとも欠けている資質なので、彼女の話に対して、すごいわー、すごすぎるわー、と乏しい語彙で感嘆するばかり。
だが同時に、やはりわたしは彼女に問わずにはいられなかった。今回の話を聞いたはじめからずっと消えない、素朴で手前勝手で押し付けがましいロマン主義的疑問を。「それで幸せなの?」と。
すると彼女は言うのだ。
幸せかどうかはわからないし、 おそらくこれから後悔をすることもあるだろうけど(離婚だってありうるかもしれない、と確かに彼女は言った)、 少なくともわたしの何よりの目的の成就に向けて状況は大きく進んだし、人生こんなものと思えてずいぶん楽になれたよ。それに、わたしはやっぱり自分自身を大切にしすぎてた。それが悪いっていうわけじゃないけど、今までわたしは、産まれたこどもをわたし好みの卑屈なこどもに育てたいと思ってたんだよね。そのためにも、卑屈な男性の遺伝子を受け継いだこどもが欲しかった。でもいまは大して思い入れなく、フラットな気持ちでこどもを待ち受けている。結婚相手がもっぱら健康で、生きることに不安がないひとだということもあるのかな(もちろん無事に出産できるかもわからないのにね)。いずれにしても、わたしの変な欲求を押し付けられるより、こども本人にとってはいいんじゃないかな。そんな感じかな…
…ダメだ、何を書きたいかよくわからなくなってしまった。こうして書いてみてわかったが、わたしはやはり彼女の話をうまく消化しきれていない。わかったようでいて、実際は彼女を理解できていないのだ。とりあえず、また改めていずれ考えることにする。わかるまでは結婚も妊娠もすまい。とりあえず、すべての悩み深きアラサー女子に呪いあれということで。
彼女についてわたしが理解した/しなかった幾つかについて。
さて、どうして思慮深いはずの彼女が、大して愛していない相手との結婚を急いだのか。それはおそらく、彼女が結婚制度や結婚相手、時間による状況の変化といった、自身の預かり知らぬ外的要因に、最早期待もロマンも抱いていないからなのではないか。今が望むような状態でないとして、結婚すれば、あの人と一緒にいれば、時間が経てば、あるいは状況が好転するかもしれない。しないかもしれない。むしろ、もっと悪くなるかもしれない。現在考えうる望ましい状態に、仮に未来において置かれたとしても、そのときも変わらずそれを望んでいるかどうかもわからない。いま・ここを離れてしまっては何もわからない。
それよりは、こどもが欲しいという現在の自身の目的を成就させるために自分がどうすれば良いか考え、機がめぐってきたらいっそ何も考えず最短の道を全力疾走すること。目的のためなら他のものごとはすべて手段と割り切って、ことを成したら成したで不要な後悔などせず、手に入れたもののなかでやれることをやること。これである。
思い立ってもなかなかできることではない。何とも潔いことよなあ。上記のような覚悟はわたしにもっとも欠けている資質なので、彼女の話に対して、すごいわー、すごすぎるわー、と乏しい語彙で感嘆するばかり。
だが同時に、やはりわたしは彼女に問わずにはいられなかった。今回の話を聞いたはじめからずっと消えない、素朴で手前勝手で押し付けがましいロマン主義的疑問を。「それで幸せなの?」と。
すると彼女は言うのだ。
幸せかどうかはわからないし、 おそらくこれから後悔をすることもあるだろうけど(離婚だってありうるかもしれない、と確かに彼女は言った)、 少なくともわたしの何よりの目的の成就に向けて状況は大きく進んだし、人生こんなものと思えてずいぶん楽になれたよ。それに、わたしはやっぱり自分自身を大切にしすぎてた。それが悪いっていうわけじゃないけど、今までわたしは、産まれたこどもをわたし好みの卑屈なこどもに育てたいと思ってたんだよね。そのためにも、卑屈な男性の遺伝子を受け継いだこどもが欲しかった。でもいまは大して思い入れなく、フラットな気持ちでこどもを待ち受けている。結婚相手がもっぱら健康で、生きることに不安がないひとだということもあるのかな(もちろん無事に出産できるかもわからないのにね)。いずれにしても、わたしの変な欲求を押し付けられるより、こども本人にとってはいいんじゃないかな。そんな感じかな…
…ダメだ、何を書きたいかよくわからなくなってしまった。こうして書いてみてわかったが、わたしはやはり彼女の話をうまく消化しきれていない。わかったようでいて、実際は彼女を理解できていないのだ。とりあえず、また改めていずれ考えることにする。わかるまでは結婚も妊娠もすまい。とりあえず、すべての悩み深きアラサー女子に呪いあれということで。
ひさしぶりに会った知り合いが、いつの間にか結婚、妊娠していた。
埼玉県で保育士をしている彼女は、まだ若いうちに結婚及び出産をしたかったのだが、4年間付き合っている彼は優柔不断でその気があるんだかないんだか、そんな彼に愛想をつかし、年末に小学校の同窓会に出席して、そこで誘われた男性と改めてふたりきりで飲みに行き、相手から告白されるようにうまく仕向け、シナリオどおり告白されたら大いに動揺したふりをしつつ、自分は4年間付き合っている同棲相手がいるので、あなたがわたしと付き合いたいのなら半年以内に結婚してください、そうしたらすぐに彼と別れますと告げて、約束をとりつけたその足で彼と別れ同棲を解消したのが2月、新しい男性と一緒に住みはじめたのが3月、妊娠が判明したのが5月、籍を入れたのが7月、妊娠は現在5ヶ月目でもうすっかり安定期、というのだからたまげた。
なお、よくある話なのかもしれないが、彼女はかつての小学校の同級生であるところの夫を格別愛しておらず、嫌いなところがないので結婚を決めた、とにかくこどもが欲しかったのでさっさと結婚したかったわたしにとって彼は好条件だったということ、と言い放ち、わたしのあんぐり開いた口は更に大きくなった。というのも、わたしが知っていたはずの彼女は、愛情深く、計算とは無縁で、何より、卑屈な男性が好きという変わった嗜好の持ち主だったから(ちなみに彼女が4年間付き合っていた彼は、生まれつき足が悪かった。彼女はそんな彼と彼の障害に、三島由紀夫の『金閣寺』の柏木のような爛れた悪を夢想し、その毒にあてられたいと思った、というようなことをかつて語った。実際のところは彼は柏木とはほど遠く、明るく前向きで誰にでも好かれ、DJをやっていたりするようなモテ男だったので、あてが外れたようだったが)。
うまくニュアンスが伝わらないかもしれないが、彼女は上記に加え、理知深く、それでいて夢見がちで、思春期をこじらせており、悪い意味でも良い意味でも人生に妥協できないひとだと勝手に認識していたので、今回の決断の唐突さにはとても驚いてしまった。なおかつ、話を聞けば聞くほど、彼女の理知深さや夢見がちなところは変わらず保持されたままであり、大して好きでもない人との慌ただしい結婚及び妊娠という今回の事態とは矛盾せず併存しているのだった。それがはじめ、わたしにはよく理解できなかったのだが、何度も首を傾げつつ質問を繰り返したことで、何となくわかってきた。
……
疲れきったので続きはまた。
埼玉県で保育士をしている彼女は、まだ若いうちに結婚及び出産をしたかったのだが、4年間付き合っている彼は優柔不断でその気があるんだかないんだか、そんな彼に愛想をつかし、年末に小学校の同窓会に出席して、そこで誘われた男性と改めてふたりきりで飲みに行き、相手から告白されるようにうまく仕向け、シナリオどおり告白されたら大いに動揺したふりをしつつ、自分は4年間付き合っている同棲相手がいるので、あなたがわたしと付き合いたいのなら半年以内に結婚してください、そうしたらすぐに彼と別れますと告げて、約束をとりつけたその足で彼と別れ同棲を解消したのが2月、新しい男性と一緒に住みはじめたのが3月、妊娠が判明したのが5月、籍を入れたのが7月、妊娠は現在5ヶ月目でもうすっかり安定期、というのだからたまげた。
なお、よくある話なのかもしれないが、彼女はかつての小学校の同級生であるところの夫を格別愛しておらず、嫌いなところがないので結婚を決めた、とにかくこどもが欲しかったのでさっさと結婚したかったわたしにとって彼は好条件だったということ、と言い放ち、わたしのあんぐり開いた口は更に大きくなった。というのも、わたしが知っていたはずの彼女は、愛情深く、計算とは無縁で、何より、卑屈な男性が好きという変わった嗜好の持ち主だったから(ちなみに彼女が4年間付き合っていた彼は、生まれつき足が悪かった。彼女はそんな彼と彼の障害に、三島由紀夫の『金閣寺』の柏木のような爛れた悪を夢想し、その毒にあてられたいと思った、というようなことをかつて語った。実際のところは彼は柏木とはほど遠く、明るく前向きで誰にでも好かれ、DJをやっていたりするようなモテ男だったので、あてが外れたようだったが)。
うまくニュアンスが伝わらないかもしれないが、彼女は上記に加え、理知深く、それでいて夢見がちで、思春期をこじらせており、悪い意味でも良い意味でも人生に妥協できないひとだと勝手に認識していたので、今回の決断の唐突さにはとても驚いてしまった。なおかつ、話を聞けば聞くほど、彼女の理知深さや夢見がちなところは変わらず保持されたままであり、大して好きでもない人との慌ただしい結婚及び妊娠という今回の事態とは矛盾せず併存しているのだった。それがはじめ、わたしにはよく理解できなかったのだが、何度も首を傾げつつ質問を繰り返したことで、何となくわかってきた。
……
疲れきったので続きはまた。
広島の殺人事件で加害者の少女が、殺人後に放置され傷んだ死体に動揺して自首に至った、と証言しているそうで、まあありそうな話ではある。詳細は知らないが、自身が殺めた元友人が変わり果てた姿で毎夜枕元に現われる悪夢にうなされただとか、そんなところだろうか。
それはそれで貧困ながら、自然な想像力の働き方なのかもしれないと思う。だが考えてみれば、死体が腐食しかつてひととしてあったようなかたちではなくなるというのは、ひとが疑いようもなく死へと移行したことをむしろ明確に示している。つまり、彼女が実際には死んでいないかもしれず、直接的な犯罪の露見なり復讐なりの恐怖に常に脅かされるというような事態は避けられたわけで、元友人の死体を前にして、少女は胸を撫で下ろすべきではなかったのか。
当然、崩壊した死体に対する生理的嫌悪はあるだろう。あるいは、残された肉体が自然の作用で分解されていく不可逆な現象によって、自身の行為のとりかえしのつかなさを改めて認識させられたのかもしれない。
いや、彼女の恐怖はやはり自然なものではないか。「死者の無念は察するに余りある」とは司法の世界ではよく聞かれる言葉であろうし、ひとびとは仕事を休んででも死者の慰霊に出かける。誰も彼も(もちろんわたしも)日常的に、死を経てもひとは死なないという信念を日常的に保持しているようである。
ほんとうは、その信念は誤っているのに。死を経たらひとは一切合切が死に放逐され、ただのひとつとして生に属するものはなく、放蕩息子の帰還など望むべくもない。ほんとうは、誰もがそれを知っているというのに。
何がいいたいかといえば、全くたいしたことをいいたいわけではなく、わたしたちの社会は、どこまでいってもひとの死をなかなかうまく取り扱えないのだな、というよくある感慨を改めて述べるのみである(あるいは誰もが、死に対して詮無い期待をしている)。
それはそれで貧困ながら、自然な想像力の働き方なのかもしれないと思う。だが考えてみれば、死体が腐食しかつてひととしてあったようなかたちではなくなるというのは、ひとが疑いようもなく死へと移行したことをむしろ明確に示している。つまり、彼女が実際には死んでいないかもしれず、直接的な犯罪の露見なり復讐なりの恐怖に常に脅かされるというような事態は避けられたわけで、元友人の死体を前にして、少女は胸を撫で下ろすべきではなかったのか。
当然、崩壊した死体に対する生理的嫌悪はあるだろう。あるいは、残された肉体が自然の作用で分解されていく不可逆な現象によって、自身の行為のとりかえしのつかなさを改めて認識させられたのかもしれない。
いや、彼女の恐怖はやはり自然なものではないか。「死者の無念は察するに余りある」とは司法の世界ではよく聞かれる言葉であろうし、ひとびとは仕事を休んででも死者の慰霊に出かける。誰も彼も(もちろんわたしも)日常的に、死を経てもひとは死なないという信念を日常的に保持しているようである。
ほんとうは、その信念は誤っているのに。死を経たらひとは一切合切が死に放逐され、ただのひとつとして生に属するものはなく、放蕩息子の帰還など望むべくもない。ほんとうは、誰もがそれを知っているというのに。
何がいいたいかといえば、全くたいしたことをいいたいわけではなく、わたしたちの社会は、どこまでいってもひとの死をなかなかうまく取り扱えないのだな、というよくある感慨を改めて述べるのみである(あるいは誰もが、死に対して詮無い期待をしている)。
成長とは何だろう。
たとえばわたしがこの放置ブログをはじめたのは7年前のことだが、それからそれなりに長い年月が経ち、わたしは成長したのだろうか。
滅多にないことだが、昨日は終電を乗り過ごすまで働いたあと、タクシーで帰らず、職場で始発までやり過ごし、帰った。
オフィスの電気を落とし、PCのディスプレイだけを光源に、普段はしない書類整理などに勤しんでいるあいだ中、理由もなくずっと柴田聡子というひとの歌を聴いていた。「カープファンの子」という曲のなかの「あの子にこどもが産まれる前に、わたしにこどもができる前に、もっともっとひどいことを考えておかなくちゃ」という一節が頭に残った。今も残っている。柴田聡子のことを知ったのは、友人の姉が経営していた江古田のカフェでときおり開催している小さいライブで友人が柴田聡子を観て気に入りわたしにCDを貸してくれたのがきっかけであり、とは言えそれから特に彼女の情報を新しく仕入れるということもないのだが、何となくするすると耳に入ってくるので、よく聴いている(江古田のカフェは友人から何度か誘われたのだが足を運ぶこともなく、さいきん閉店してしまったそう)。
始発の山手線はちらほら立つひとがいるほどには混んでおり、わたしの隣に座ったぶかぶかのパンツを履いた若者からはなぜだか断続的に大便および小便の臭いがし、わたしは不快な気持ちになる。若者はスマートフォンをずっといじっており、たまに肘がわたしの身体にあたる。向かいにはニッカポッカの男性が座っている。携帯で時間を確かめると4:44で、ああ4:44だとわたしは思う。
向かいのとなりには女性が座り、舟を漕いでいる。わたしはあるいは彼女だったかもしれず、もしかするとニッカポッカ、悪くすれば大小便の臭いを漂わせる若者だったかもしれない。そうであったとしても、まったく差し支えがない。わたしの頭は意味もなくぐるぐる巡る。どうしてわたしは若者でなく、そのとなりに座っている疲れた風情の30女であり、始発の山手戦で小大便の臭いを嗅がなければいけないのか。どうして当人は自身の臭いに鈍感でいられるのだろう。どうして終電を逃すまで働かなければならないのか。どうしてヴァージニア・ウルフは入水したのか。どうして扉に閂は通されるのか。どうして猛毒のある動植物が存在するのか。もちろん、それらに理由はない。4:44という数字の羅列、あるいは柴田聡子を飽きるまで聴くことと変わりはない。柴田聡子をいまは繰り返し聴いているが、近いうちに飽きるだろう。そして思い出すこともあるまい。柴田聡子を。あらゆることを。思い出したときには違うものになっている、わたしの記憶は。電車は池袋を過ぎる。
山手線が環状線であるように、わたしの記憶も、記憶を寄せ集め継ぎ合わせたわたしの人格も、おなじところを過ぎるだけ。一度目よりは二度目、二度目よりは三度目の方が分別や含蓄はあるが、その分、飽きている。それが四度目、五度目と反復を続ければ、もう何が何だか。年を経て、わたしは昔と比べて、ただ何だかよくわからなくなっただけ。断じて成長などしていない(ただ何だかよくわからなくなったことを成長と捉えるのなら、成長したのかもしれないが)。仕事もそれなりに長く続けていれば愛着も湧いてくるが、誰かに唆されたらいつでも背信行為を行うだろう。職業柄、国の機密を扱うことがあるのだが、それがあまりにもお粗末な内容ばかりで、自身の仕事に負担がかからなければ所構わず吹聴するだろうと思ったりする。それなのに、なぜ遅くまで働いたりするのか。理由など、何もない。
話はただ拡散していく一方だが、『伝え方が9割』という本が電車内の広告スペースで宣伝されており、仮に伝え方が9割というのが本当だとすれば、わたしはほとんど何も伝えられていない。あなたもわたしも、おなじ駅、おなじ夜、おなじ感情を行き過ぎる。ここからここへ、少しも移動しておらず、いつでも出会っているふりをして、あと1割はどこかへ霧散してしまう。 だがその1割こそ! 1割こそ! と意気込んでみても、そもそも伝えるべきことがない。こんにちは、さようなら、おやすみなさい、それくらい。
わたしは絶望していない。絶望するには何が何だかよくわからなくなってしまった。そのことは悲しいことなのか、喜ばしいことなのか、それもまた、よくわからなくなってしまった。家に帰って、窓際の観葉植物の水を換える。日に当てすぎたのだろう、全体に葉が日焼けし赤茶けており、一部の葉ばかりが床にとどくほど伸びている。わからなさの果てには何があるのだろう。おやすみなさい、昨日のわたし。おはよう、今日のわたし。そしてじきに、さようなら。
たとえばわたしがこの放置ブログをはじめたのは7年前のことだが、それからそれなりに長い年月が経ち、わたしは成長したのだろうか。
滅多にないことだが、昨日は終電を乗り過ごすまで働いたあと、タクシーで帰らず、職場で始発までやり過ごし、帰った。
オフィスの電気を落とし、PCのディスプレイだけを光源に、普段はしない書類整理などに勤しんでいるあいだ中、理由もなくずっと柴田聡子というひとの歌を聴いていた。「カープファンの子」という曲のなかの「あの子にこどもが産まれる前に、わたしにこどもができる前に、もっともっとひどいことを考えておかなくちゃ」という一節が頭に残った。今も残っている。柴田聡子のことを知ったのは、友人の姉が経営していた江古田のカフェでときおり開催している小さいライブで友人が柴田聡子を観て気に入りわたしにCDを貸してくれたのがきっかけであり、とは言えそれから特に彼女の情報を新しく仕入れるということもないのだが、何となくするすると耳に入ってくるので、よく聴いている(江古田のカフェは友人から何度か誘われたのだが足を運ぶこともなく、さいきん閉店してしまったそう)。
始発の山手線はちらほら立つひとがいるほどには混んでおり、わたしの隣に座ったぶかぶかのパンツを履いた若者からはなぜだか断続的に大便および小便の臭いがし、わたしは不快な気持ちになる。若者はスマートフォンをずっといじっており、たまに肘がわたしの身体にあたる。向かいにはニッカポッカの男性が座っている。携帯で時間を確かめると4:44で、ああ4:44だとわたしは思う。
向かいのとなりには女性が座り、舟を漕いでいる。わたしはあるいは彼女だったかもしれず、もしかするとニッカポッカ、悪くすれば大小便の臭いを漂わせる若者だったかもしれない。そうであったとしても、まったく差し支えがない。わたしの頭は意味もなくぐるぐる巡る。どうしてわたしは若者でなく、そのとなりに座っている疲れた風情の30女であり、始発の山手戦で小大便の臭いを嗅がなければいけないのか。どうして当人は自身の臭いに鈍感でいられるのだろう。どうして終電を逃すまで働かなければならないのか。どうしてヴァージニア・ウルフは入水したのか。どうして扉に閂は通されるのか。どうして猛毒のある動植物が存在するのか。もちろん、それらに理由はない。4:44という数字の羅列、あるいは柴田聡子を飽きるまで聴くことと変わりはない。柴田聡子をいまは繰り返し聴いているが、近いうちに飽きるだろう。そして思い出すこともあるまい。柴田聡子を。あらゆることを。思い出したときには違うものになっている、わたしの記憶は。電車は池袋を過ぎる。
山手線が環状線であるように、わたしの記憶も、記憶を寄せ集め継ぎ合わせたわたしの人格も、おなじところを過ぎるだけ。一度目よりは二度目、二度目よりは三度目の方が分別や含蓄はあるが、その分、飽きている。それが四度目、五度目と反復を続ければ、もう何が何だか。年を経て、わたしは昔と比べて、ただ何だかよくわからなくなっただけ。断じて成長などしていない(ただ何だかよくわからなくなったことを成長と捉えるのなら、成長したのかもしれないが)。仕事もそれなりに長く続けていれば愛着も湧いてくるが、誰かに唆されたらいつでも背信行為を行うだろう。職業柄、国の機密を扱うことがあるのだが、それがあまりにもお粗末な内容ばかりで、自身の仕事に負担がかからなければ所構わず吹聴するだろうと思ったりする。それなのに、なぜ遅くまで働いたりするのか。理由など、何もない。
話はただ拡散していく一方だが、『伝え方が9割』という本が電車内の広告スペースで宣伝されており、仮に伝え方が9割というのが本当だとすれば、わたしはほとんど何も伝えられていない。あなたもわたしも、おなじ駅、おなじ夜、おなじ感情を行き過ぎる。ここからここへ、少しも移動しておらず、いつでも出会っているふりをして、あと1割はどこかへ霧散してしまう。 だがその1割こそ! 1割こそ! と意気込んでみても、そもそも伝えるべきことがない。こんにちは、さようなら、おやすみなさい、それくらい。
わたしは絶望していない。絶望するには何が何だかよくわからなくなってしまった。そのことは悲しいことなのか、喜ばしいことなのか、それもまた、よくわからなくなってしまった。家に帰って、窓際の観葉植物の水を換える。日に当てすぎたのだろう、全体に葉が日焼けし赤茶けており、一部の葉ばかりが床にとどくほど伸びている。わからなさの果てには何があるのだろう。おやすみなさい、昨日のわたし。おはよう、今日のわたし。そしてじきに、さようなら。
text
2013年7月27日 われはうたえどもはっぽうやぶれ
どうでもいい話だ。
伝えるには余りにも
これ以前に、
37行が不在だった(数えなくてもよろしい。実際には36行しかないのだから)。それよりもっと前は、不在より前は——
はじめに空白があり、次いで饒舌がやってきた。しかしそれは言葉ではなく豚の食い散らかしのようであり、不愉快で苛立たしげな情緒のない旋律のようでもあった。というのもわたしには予め言葉が与えられず饒舌の正体を知る前から既に気が狂っていたからだ。そのように。だがわたしにはサチがいた。夏の朝の澄んだひかりの匂い。サチは。草の露や小さい生き物たちのさえずりと仲良しのひかりの。わたしはサチを愛していたし、わたしたちはまるで時間の外へ放り投げられたみたいにふたりいっしょだったのだ。そのように。だからわたしは思い出す——。
サチの衣服に鼻を埋めひかりの匂いを勢い良く吸い込むと鼻がつんと痛くなり、わたしの目には涙が滲んだがそれにサチは気がつかない、わたしの愛する姉は(彼女は何にも気がつかなかった、最後まで)。それで、手鏡があって。湖の表面のような鏡をわたしが覗き込むとサチがわたしに微笑みかけているのが鏡の奥に見え、手前では縮れた髪を無造作に撫で付けたパン粉みたいな肌の太った男がわたしを見ていた。わたしは泣き出した。鏡に映った男も醜く泣き出した。鏡のなかのサチが「泣かないの、あなたの好きなものをあげるから」とわたしに向かって柔らかな声をくれ、わたしの後ろからサチが手を伸ばしわたしの手に蛍の入った壜を握らせた。鏡の男も鏡のサチから壜を受け取っていたが手に握られた蛍はわたしの所有するものであり壜はひんやりと冷たかった。わたしは泣きやんだ。壜はひんやり冷たかった。手触りは滑らかで壜のなかはもっと冷たいのだろう、蛍も冷たいし蛍のひかりは冷たいひかりなのだろうとわたしは思ってサチにそれを伝えたかった。「嬉しい? あのね、タネ、よく聞いて。わたしたちは、本当は生きていないの。生きていないのよ、あなたにはわからないかもしれないけど」そのように。冷たいひかり。彼女が何を云ったのかわたしはわからなかったが同時にわたしにはわかった。わたしはサチに伝えたかった。
「あなたが気が狂っているように世界も気が狂っているの。今日すれ違った盲目の老婆がわたしで、傍らで呼吸困難に陥っているのがタネ、あなたなの? きっとそう。盲目の老婆の濁った眼球には、壜はいつだって割れていて、蛍のひかりはひかりそれ自体を照らさない。だからわたしたちの時間は交わらない、わたしたちは、ひとつの名前も持っていない、それで、誰が誰の奴隷だというの?」サチがわたしの首筋に手をあてた。サチはひかりの匂いがした。サチのひかりの匂いが。そのように。わたしはサチに伝えたかった。
「これから、かつて一度も起こらなかったことについて話をするわ。冬の話。ふたりで学校をずる休みして街外れのサーカスに行こうってわたしは云うの。あなたは頷くけど、ほんとうのところあなたがサーカスを観たかったかどうかはわからない(わたしはあなたが何を考えているのかわかったためしがない。きっといつかはわかるときが来るのかしら)。スーパーマーケットの駐車場のはしっこの自動販売機の隣にある電話ボックスから学校に電話をかけるの。お母さんのふりをして。電話ボックスのなかでも、吐く息が白かった。うちのふたりの子どもたちは昨日の体育のマラソンで風邪をひいてしまいました。ちょっとアテツケがましく。そしたら先生はお母さんのふりをしたわたしに云う。お大事にって云う。わたしたちは顔を見合わせて笑った。タネ、あなたは笑ったわ。そして、わたしたちは」蛍のひかりが明滅を繰り返すのをわたしは壜の外から見ていた壜の中で蛍がひかっていたわたしは言葉を話したかったが話せなかった。代わりに口から音が漏れそれは豚のような音で。「わたしたちは存在していたのかもしれなかった。冬のことよ。吐く息が白かったの。サーカスに行くために、わたしたちは存在していたのかもしれなかった。そしたら急に雨が降ってきて、雨は降り止まず激しくなりスーパーマーケットも遠くに見えるサーカスのテントも何もかもを灰色に染めてしまって、わたしたちは電話ボックスに閉じ込められてしまう。タネ、困ったね。わたしたちはしばらくじっとしていた。いっぺんに存在しなくなっちゃったみたいに、息をひそめて。そしたら、いよいよ心細くなって、わたしは泣き出すの。でもあなたはお母さんにしてもらった、こするとぎしぎし音の鳴る手袋をはめた両手でわたしの手を包んで、言葉にならない言葉で『大丈夫、サチ、泣かないで』って云った。何度も何度も。『泣かないで、泣かないでよ、大丈夫だから』って」そのように。
蛍のひかりが不意に消え、暗闇がわたしを襲った。それは馴れっこだったしサチがすぐ傍にいるのがわかったからわたしは泣かなかったが壜と鏡を持つ手の感覚がなくなるにつれ暗闇はわたしを遠くへ連れて行ってわたしにわたしをわからなくさせ、ひかりみたいなサチの匂いを嗅ぎ分けられないようにしてしまうように思え、わたしは泣き出した。「悲しまないで、お願いだから」とサチが云った。彼女はわたしを抱き寄せ今にも消えそうな、今にも消えそうなひかりの匂いのする頬をわたしの額にあてそれからわたしの額にキスをした。わたしは泣きやんだ。「わたしたちは病気なんだわ」とサチが云った。「わたしたちは存在しない病気なのよ」
はじめに空白があり、次いで饒舌がやってきた。饒舌は凄まじい暴風でもってわたしを襲いわたしを混濁させわたしをわたしだとわからなくさせ全てが終わったあとにそうして、サチはもういなかった。あるいはサチが云うようにはじめからサチは存在していなかったのかもしれない。悲しまないで、お願いだから。誰が誰の奴隷だというのだろう? 37という数はわたしの年齢だがそれはある詩人の消息に由来しているかもしれないしそうじゃないかもしれない(いずれにせよ、わたしがそれを知り得ることはないだろう。沙漠の彼方に消え去り、右足を切断でもしなければ)。喜ばしいことに。わたしは何もかもを忘れている。わたしが思い出したことはかつて一度も起こらなかったことだ。そのように。蛍の冷たいひかりが、わたしたちが閉じ込められている壜をひんやりさせ、吐く息まで白くさせる。そのように。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。4回繰り返した。わたしの、わたしのものではないわたしの言葉を。
伝えるには余りにも
これ以前に、
37行が不在だった(数えなくてもよろしい。実際には36行しかないのだから)。それよりもっと前は、不在より前は——
はじめに空白があり、次いで饒舌がやってきた。しかしそれは言葉ではなく豚の食い散らかしのようであり、不愉快で苛立たしげな情緒のない旋律のようでもあった。というのもわたしには予め言葉が与えられず饒舌の正体を知る前から既に気が狂っていたからだ。そのように。だがわたしにはサチがいた。夏の朝の澄んだひかりの匂い。サチは。草の露や小さい生き物たちのさえずりと仲良しのひかりの。わたしはサチを愛していたし、わたしたちはまるで時間の外へ放り投げられたみたいにふたりいっしょだったのだ。そのように。だからわたしは思い出す——。
サチの衣服に鼻を埋めひかりの匂いを勢い良く吸い込むと鼻がつんと痛くなり、わたしの目には涙が滲んだがそれにサチは気がつかない、わたしの愛する姉は(彼女は何にも気がつかなかった、最後まで)。それで、手鏡があって。湖の表面のような鏡をわたしが覗き込むとサチがわたしに微笑みかけているのが鏡の奥に見え、手前では縮れた髪を無造作に撫で付けたパン粉みたいな肌の太った男がわたしを見ていた。わたしは泣き出した。鏡に映った男も醜く泣き出した。鏡のなかのサチが「泣かないの、あなたの好きなものをあげるから」とわたしに向かって柔らかな声をくれ、わたしの後ろからサチが手を伸ばしわたしの手に蛍の入った壜を握らせた。鏡の男も鏡のサチから壜を受け取っていたが手に握られた蛍はわたしの所有するものであり壜はひんやりと冷たかった。わたしは泣きやんだ。壜はひんやり冷たかった。手触りは滑らかで壜のなかはもっと冷たいのだろう、蛍も冷たいし蛍のひかりは冷たいひかりなのだろうとわたしは思ってサチにそれを伝えたかった。「嬉しい? あのね、タネ、よく聞いて。わたしたちは、本当は生きていないの。生きていないのよ、あなたにはわからないかもしれないけど」そのように。冷たいひかり。彼女が何を云ったのかわたしはわからなかったが同時にわたしにはわかった。わたしはサチに伝えたかった。
「あなたが気が狂っているように世界も気が狂っているの。今日すれ違った盲目の老婆がわたしで、傍らで呼吸困難に陥っているのがタネ、あなたなの? きっとそう。盲目の老婆の濁った眼球には、壜はいつだって割れていて、蛍のひかりはひかりそれ自体を照らさない。だからわたしたちの時間は交わらない、わたしたちは、ひとつの名前も持っていない、それで、誰が誰の奴隷だというの?」サチがわたしの首筋に手をあてた。サチはひかりの匂いがした。サチのひかりの匂いが。そのように。わたしはサチに伝えたかった。
「これから、かつて一度も起こらなかったことについて話をするわ。冬の話。ふたりで学校をずる休みして街外れのサーカスに行こうってわたしは云うの。あなたは頷くけど、ほんとうのところあなたがサーカスを観たかったかどうかはわからない(わたしはあなたが何を考えているのかわかったためしがない。きっといつかはわかるときが来るのかしら)。スーパーマーケットの駐車場のはしっこの自動販売機の隣にある電話ボックスから学校に電話をかけるの。お母さんのふりをして。電話ボックスのなかでも、吐く息が白かった。うちのふたりの子どもたちは昨日の体育のマラソンで風邪をひいてしまいました。ちょっとアテツケがましく。そしたら先生はお母さんのふりをしたわたしに云う。お大事にって云う。わたしたちは顔を見合わせて笑った。タネ、あなたは笑ったわ。そして、わたしたちは」蛍のひかりが明滅を繰り返すのをわたしは壜の外から見ていた壜の中で蛍がひかっていたわたしは言葉を話したかったが話せなかった。代わりに口から音が漏れそれは豚のような音で。「わたしたちは存在していたのかもしれなかった。冬のことよ。吐く息が白かったの。サーカスに行くために、わたしたちは存在していたのかもしれなかった。そしたら急に雨が降ってきて、雨は降り止まず激しくなりスーパーマーケットも遠くに見えるサーカスのテントも何もかもを灰色に染めてしまって、わたしたちは電話ボックスに閉じ込められてしまう。タネ、困ったね。わたしたちはしばらくじっとしていた。いっぺんに存在しなくなっちゃったみたいに、息をひそめて。そしたら、いよいよ心細くなって、わたしは泣き出すの。でもあなたはお母さんにしてもらった、こするとぎしぎし音の鳴る手袋をはめた両手でわたしの手を包んで、言葉にならない言葉で『大丈夫、サチ、泣かないで』って云った。何度も何度も。『泣かないで、泣かないでよ、大丈夫だから』って」そのように。
蛍のひかりが不意に消え、暗闇がわたしを襲った。それは馴れっこだったしサチがすぐ傍にいるのがわかったからわたしは泣かなかったが壜と鏡を持つ手の感覚がなくなるにつれ暗闇はわたしを遠くへ連れて行ってわたしにわたしをわからなくさせ、ひかりみたいなサチの匂いを嗅ぎ分けられないようにしてしまうように思え、わたしは泣き出した。「悲しまないで、お願いだから」とサチが云った。彼女はわたしを抱き寄せ今にも消えそうな、今にも消えそうなひかりの匂いのする頬をわたしの額にあてそれからわたしの額にキスをした。わたしは泣きやんだ。「わたしたちは病気なんだわ」とサチが云った。「わたしたちは存在しない病気なのよ」
はじめに空白があり、次いで饒舌がやってきた。饒舌は凄まじい暴風でもってわたしを襲いわたしを混濁させわたしをわたしだとわからなくさせ全てが終わったあとにそうして、サチはもういなかった。あるいはサチが云うようにはじめからサチは存在していなかったのかもしれない。悲しまないで、お願いだから。誰が誰の奴隷だというのだろう? 37という数はわたしの年齢だがそれはある詩人の消息に由来しているかもしれないしそうじゃないかもしれない(いずれにせよ、わたしがそれを知り得ることはないだろう。沙漠の彼方に消え去り、右足を切断でもしなければ)。喜ばしいことに。わたしは何もかもを忘れている。わたしが思い出したことはかつて一度も起こらなかったことだ。そのように。蛍の冷たいひかりが、わたしたちが閉じ込められている壜をひんやりさせ、吐く息まで白くさせる。そのように。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。わたしはサチに伝えたかった。4回繰り返した。わたしの、わたしのものではないわたしの言葉を。
Do demo. Eh, an ash I.
2010年3月20日 ひびのあれかこれか コメント (1)
どうでもいい話。弓子さんという陶芸教室の先生をしている女性と言葉を交わす機会があり、素敵な名前ですね、と言うと、祖父が想いを込めて付けてくれたのよ、と言うので、漫画家の大島弓子も弓子さんと同じ名前ですが、確かお祖父さんが名付け親だそうですね、偶然、と伝えた。
自己紹介で弓子さんから名前の漢字を告げられたときから、わたしの大好きな大島弓子の名前が頭に浮かんでいて、彼女の年齢からいっても大島弓子のことは知っているだろうから、ちょうど良い話題だと思ったので。
すると彼女は、ああ、そうなのよね、そうみたいね、とだけぎこちなく口にすると、唐突に話題を別のものに切り替えてしまった(それから場の話題は料理をはじめとする家事一般は男性の方が向いていると思う、という弓子さんの主張をめぐって、めいめいが勝手なことを述べ合うという、本質主義的な、わたしにとってはくだらなく感じられるものへ移っていった)。
話としては、それだけのできごとなのだが、このことは何となくわたしの心にひっかかった。そして今でもひっかかっている。
というのも、後から考えるに、弓子さんの名付けの話は、おそらく大島弓子のそれを拝借したように感じられたから。それを本人に確かめたわけではないので、全くわたしの思い込みなのだけれど、思い込んだらそうとしか思えなくなってしまい、実際それが事実だとしてもどうでもいいことなのに、そんなどうでもいいことが心にひっかかってしまう自身のみみっちさにうんざりしてしまうから。
加えて、後から考えて、あの話は借り物なのではないか、と気が付いたときに、さぞかし大発見をしたかのように心が躍ってしまい、自分が弓子さんを値踏みするように見ていたこと、この一件(ともいえないできごと)によって彼女をディスカウントしていい気になっていたことを発見し、更にうんざりもっさりしてしまうから。
そしてそれらをこうしてここに書き付けている理由は、わたしが自己分析をしっかり果たしているということを他人に示したいというナルシシズムと、他人にとって心底どうでもいいわたしの大発見を、この期に及んで誰かに話したいという、自分でもよく解らない表現欲求によるものである、当然。どうでもいい話。それにしても弓子というのは素敵な名前ですね。
自己紹介で弓子さんから名前の漢字を告げられたときから、わたしの大好きな大島弓子の名前が頭に浮かんでいて、彼女の年齢からいっても大島弓子のことは知っているだろうから、ちょうど良い話題だと思ったので。
すると彼女は、ああ、そうなのよね、そうみたいね、とだけぎこちなく口にすると、唐突に話題を別のものに切り替えてしまった(それから場の話題は料理をはじめとする家事一般は男性の方が向いていると思う、という弓子さんの主張をめぐって、めいめいが勝手なことを述べ合うという、本質主義的な、わたしにとってはくだらなく感じられるものへ移っていった)。
話としては、それだけのできごとなのだが、このことは何となくわたしの心にひっかかった。そして今でもひっかかっている。
というのも、後から考えるに、弓子さんの名付けの話は、おそらく大島弓子のそれを拝借したように感じられたから。それを本人に確かめたわけではないので、全くわたしの思い込みなのだけれど、思い込んだらそうとしか思えなくなってしまい、実際それが事実だとしてもどうでもいいことなのに、そんなどうでもいいことが心にひっかかってしまう自身のみみっちさにうんざりしてしまうから。
加えて、後から考えて、あの話は借り物なのではないか、と気が付いたときに、さぞかし大発見をしたかのように心が躍ってしまい、自分が弓子さんを値踏みするように見ていたこと、この一件(ともいえないできごと)によって彼女をディスカウントしていい気になっていたことを発見し、更にうんざりもっさりしてしまうから。
そしてそれらをこうしてここに書き付けている理由は、わたしが自己分析をしっかり果たしているということを他人に示したいというナルシシズムと、他人にとって心底どうでもいいわたしの大発見を、この期に及んで誰かに話したいという、自分でもよく解らない表現欲求によるものである、当然。どうでもいい話。それにしても弓子というのは素敵な名前ですね。
何も起こらない
2010年3月5日 われはうたえどもはっぽうやぶれだれしもが
わたしたちを 訪ねたのだろう
まえぶれも 起こらなかった笑い声も 鋏も 文字盤のない時計 移動遊園地も 墜落する航空機も 整合性のない主張や 鐘の音 とばっちり 沙漠を渡るキャラバン 血液や運命さえも わたしたちがひた隠しにしたがる暗い欲望が わたしたちの堆く積まれた死体を 黒く照らしている
永遠に
ほんとうに
心から
山裾をすべる風が
気持ちよく
暴力と言葉は
自由の
泉
いいえ 起こらなかったことは あたたかい 草もなめらかさも飲料水も 生きることに必要なものは みな苦い そう教えられたような気がするし 何だか眠たい あなたのあたたかさは夢のように確かだから もういない いいえ いないことはあたたかい 自分のことがいちばん大切なの 誰だって 湿地帯に建造された窓のない建物のなかで 焼かれている あなたが耳癈か盲だったなら 歩くことさえ怖がっていたなら いいえ 何も起こらない あたりはいちようにあたたかで 焔を押し付けられた肌膚は きれいな色をしている 憎しみらしく 穏やかに いいえ 何も起こらない とうに 訪ねられて それらに――
誰かがドアをたたいている音
ドアを開ければ誰もいない
窓がすこし開いていて
あたたかい空気が
日常のように
侵入してくる
燻っている
熾火
いずれわたしたちもはなればなれになる
永遠に
ほんとうに
心から
愛している 愛している 愛していない
そうね
きっと
実家に帰ったら、ドーンという音が響いて、祖母が階段から滑り落ち、離れた部屋で歓談していたわたしたちが急いで駆けつけると、祖母が仰向けで身体を縮こまらせ、ぁ、ぁ、ぁ、と呻いている、あとで聞いたところによると、階段の中ほどに置かれてあった箱の中身(母が注文した有機野菜の詰め合わせだった)が気になって覗き込もうとして、足を滑らせたという、まったくイジキタナイからそんなことになる、と母が、熱海在住の母の妹に電話で告げている、ようよう祖母を起き上がらせ近くの病院で診察を受けると、骨折のため(簡単な)手術が必要ということである、というのが土曜と日曜、それでたまたま今日(月曜)まで仕事が休みだったので、実家の冷凍庫に忘れさられていた苺を使って、季節外れもいいところだが苺ババロアを作ってみた、煮つめて濾した苺に砂糖にゼラチンに少々の牛乳に生クリーム、生クリームは1パック(200cc)で800キロカロリー以上もあるそうで、戦々恐々としつつ2パックをボウルにあけ、ほどよく泡立てる、鼻歌が自然と鼻腔を抜けていく、祖母の入院、手術が控えているというのに、不謹慎なことだ、仰向けで呻く祖母の姿を思い起こすと、血の気が引く、祖母と母の今後を考えると、どうにも先行きは困難なように思え、暗い気持ちになる、わたしも祖母と母を支えなければなるまい、何もない、空っぽなわたしが、こうしていよいよ介護だったりといった死の昏冥さを帯びた渦に巻き込まれていくのだろうか、早々と? 遅まきながら? まだ何も書いていないのに? とはいっても、何を書くというのだろう? 熱海在住の母の妹の職業は保母なので、わたしは彼女に箸の持ち方を教わった、ので箸はきれいに使えるのだが、なぜか鉛筆の持ち方がおかしいままである、大学生のとき、ふとしたきっかけで仲良くなった男性とファーストフード店で向かい合わせに座って、その彼がポラロイドカメラで知り合いを撮影し、その場でできあがった写真に何でもいいから一言書いてもらう、という恥ずかしい悪趣味の持ち主だったので、引き攣った顔のわたしの写真の下の空白に、とっさに「沈黙は金」と書いたことがあった、その際彼が、鉛筆の持ち方おかしいね、直した方がいいよ、と明らかにわたしに対しての評価を下げたような調子で口にした、恥ずかしさのあまり、わたしの心はその日ずっと山にこもって帰って来られず、後日帰ってきた心と相談して、これからはちゃんとした持ち方で字を書こうと誓ったのだったが、今もおかしいままである、仕事のときなど、人前で何かを書かなければならないとき、いつも恥ずかしい思いをしているのに、そういえば最近は直そうという方向に気持ちが向かったことが無かった、何にせよ、自分の悪いところをいちいち検証し、改善しようとすることを長いこと怠っている、その果てに、何もないわたしがこうして息をしている、何もないままに生活することができてしまうので、相変わらず何もないままで、できあがったババロアは少々ふんわりしすぎていて、どうやら生クリームをかきまぜすぎたらしい、母には好評だったが、わたしには不満が残った、次に作る機会があれば、気をつけよう、何にせよ、改善に向かう心持ちが大切、そんな白々しいことを書き付けながら、今も鼻歌をふんふんと歌っている(なぜか宇多田ヒカル)、祖母の転落にかこつけて、こんな遅くまで起きている、早く寝たいと思っている、おかしいままである、早々と? 遅まきながら? 時間をかけて何か書こうと思っている、おかしいままである、
九州男児をこよなく愛する
2010年1月2日 愛の未完成
今年の年末および年越しは近年稀に見る酷さで、付き合いで顔を出した忘年会の帰りに、たまたま方向が一緒で電車に乗り合わせた、大して互いに知りもしないひとから失礼なことを言われ、あるいは興味もない九州男児についての講釈を聞かされ、うんざりしているあいだに、気が付くと年が明けていた(得られた教訓:九州男児的メンタリティを持った人とは、絶対に付き合わないこと!)。
忘年会に出かける前には、高校時代からの付き合いの友人から電話がかかってきて、鬱病がいよいよひどくて、どうなるか解らない、という内容の話をされた。会の最中にも続けて着信があったが、出なかった。震える携帯を手に取って、画面に表示される彼女の名前と写真を眺めながら、出ようかどうか迷ったんだけれど。
更には、年が明けたあとに電話で話した異性の友人と、こっぴどくケンカをしてしまった。わたしは彼の不義理を詰ったが、考えてみれば彼が不義理なのは端的にわたしに人間的魅力が乏しいからで、どうしようもないことなのかもしれなかった。人間的魅力に乏しいから電車のなかでも失礼なことを言われるのだ。鬱病の友人を見捨てたりするのだ(これは逆か)。年明け早々ケンカをするのだ。その他は、口内炎。乾燥肌。ありえない寒さ。ワインのシミを作ってしまったブラウス。品性の下劣な家族および一族。汚らしい部屋。何にも心が動かない、カサカサの心。
この三、四年、年越しには二時間くらいかけて入浴するのが恒例になっているので、ケンカを終えたあと、惰性的にお風呂に入った。そういえば先週は、異性の友人と、銀座でお茶をして、日比谷で映画を観て、青山でお酒を飲んだのだった。そんなことを書くと、調子に乗っている感じがするし、確かにそのときのわたしは調子に乗っていたのだろうが、今にして思えば、滑稽極まりない。遊びに行ったのも、こうして湯船に半身だけ浸かっているのも、惰性だし、わざとらしいし、その場しのぎだし、人間的魅力に乏しいし、渇いた心にはほとんど関係がない(今回の日記の題名やバナーもそうですね)。でもだからといって、どうすればいいだろうか。わたしにはよく、解らない。いや、嘘だ。どうすればいいかは、解っている。でもどうすればそうできるかは、解らない。
お風呂から上がると、あまりに寒すぎる。乾燥肌が、すぐに痒くなる。ほんとうに、解らない。
忘年会に出かける前には、高校時代からの付き合いの友人から電話がかかってきて、鬱病がいよいよひどくて、どうなるか解らない、という内容の話をされた。会の最中にも続けて着信があったが、出なかった。震える携帯を手に取って、画面に表示される彼女の名前と写真を眺めながら、出ようかどうか迷ったんだけれど。
更には、年が明けたあとに電話で話した異性の友人と、こっぴどくケンカをしてしまった。わたしは彼の不義理を詰ったが、考えてみれば彼が不義理なのは端的にわたしに人間的魅力が乏しいからで、どうしようもないことなのかもしれなかった。人間的魅力に乏しいから電車のなかでも失礼なことを言われるのだ。鬱病の友人を見捨てたりするのだ(これは逆か)。年明け早々ケンカをするのだ。その他は、口内炎。乾燥肌。ありえない寒さ。ワインのシミを作ってしまったブラウス。品性の下劣な家族および一族。汚らしい部屋。何にも心が動かない、カサカサの心。
この三、四年、年越しには二時間くらいかけて入浴するのが恒例になっているので、ケンカを終えたあと、惰性的にお風呂に入った。そういえば先週は、異性の友人と、銀座でお茶をして、日比谷で映画を観て、青山でお酒を飲んだのだった。そんなことを書くと、調子に乗っている感じがするし、確かにそのときのわたしは調子に乗っていたのだろうが、今にして思えば、滑稽極まりない。遊びに行ったのも、こうして湯船に半身だけ浸かっているのも、惰性だし、わざとらしいし、その場しのぎだし、人間的魅力に乏しいし、渇いた心にはほとんど関係がない(今回の日記の題名やバナーもそうですね)。でもだからといって、どうすればいいだろうか。わたしにはよく、解らない。いや、嘘だ。どうすればいいかは、解っている。でもどうすればそうできるかは、解らない。
お風呂から上がると、あまりに寒すぎる。乾燥肌が、すぐに痒くなる。ほんとうに、解らない。
No Woman No Cry
2009年12月16日 ひびのあれかこれか
前回のつづき。
さて目覚めると9時。サコたんの妹の爽子ちゃんが起き出してきて、リビングで仕事をしたそうだったので気力を振り絞り立ち上がる。洗面所の鏡のなかにひどい顔のひとがいる。誰だお前! 「 ~Woman, little sister, don’t shed no tears」。何となく「No Woman No Cry」が頭の中に流れる。
サコたん家をあとにし、グンちゃんにどんな感じか教えてもらおうとメールすると、ほんとに狭くて大変、ゆっくり来てちょと連絡があったので、まだ時間も早いし、やってしまいました、山手線一周(正確には一周半)。なんて寝心地の悪いベッド! お尻が、とても痛くなって。
ようやく12時過ぎに蒲田、大田区産業プラザPiO。前日の大雨のせいでやや厚着をしてきたので暑い。思えばこういう場所に来たのははじめて。確かに、すっぱい臭いがする。
彼女たちのブースに行くと、ふたりとも明るい顔。知らないひとに同人誌が売れたという。すごーい。それからは、貝垣くんやグンちゃんの彼やスコブさんや、わたしも知っているひとたちがけっこう来てくれて目まぐるしく、たまに売り子もやったりして、そのときちょうどすごく苦手だった大学時代の知り合いのひとが挨拶に来てへどもどしたりして、いろいろ面白かった。
何ていうか、ごくごく内輪のひとたちのみで欲望をやりとりして楽しがるこういったイベントは、実にさもしいものだとは思う。思うけれど、わたしみたいにふだんは文化的僻地でもっとずっとさもしい生活を送っている人間にとってみれば、さもしかろうが楽しい。楽しければ悪い気はしない、当然。でもさもしさにも(わたしの勝手な基準に照らせば)好ましいさもしさとそうでないさもしさがあって、文学フリマに参加することがどの程度のさもしさなのかは、ちょっとまだ解らない。
ただ、今回は颯子さんがヘンシューチョーとして、怠惰でいいかげんなわたしたちの舵をとってくれ、それぞれのがんばりをどうにかかたちにしてくれて、そのことには心底敬服&感謝!
そうそう、サコたんとグンちゃんからは、わたしの書いたものが気持ち悪いとダメを出される。ショック死。
さて目覚めると9時。サコたんの妹の爽子ちゃんが起き出してきて、リビングで仕事をしたそうだったので気力を振り絞り立ち上がる。洗面所の鏡のなかにひどい顔のひとがいる。誰だお前! 「 ~Woman, little sister, don’t shed no tears」。何となく「No Woman No Cry」が頭の中に流れる。
サコたん家をあとにし、グンちゃんにどんな感じか教えてもらおうとメールすると、ほんとに狭くて大変、ゆっくり来てちょと連絡があったので、まだ時間も早いし、やってしまいました、山手線一周(正確には一周半)。なんて寝心地の悪いベッド! お尻が、とても痛くなって。
ようやく12時過ぎに蒲田、大田区産業プラザPiO。前日の大雨のせいでやや厚着をしてきたので暑い。思えばこういう場所に来たのははじめて。確かに、すっぱい臭いがする。
彼女たちのブースに行くと、ふたりとも明るい顔。知らないひとに同人誌が売れたという。すごーい。それからは、貝垣くんやグンちゃんの彼やスコブさんや、わたしも知っているひとたちがけっこう来てくれて目まぐるしく、たまに売り子もやったりして、そのときちょうどすごく苦手だった大学時代の知り合いのひとが挨拶に来てへどもどしたりして、いろいろ面白かった。
何ていうか、ごくごく内輪のひとたちのみで欲望をやりとりして楽しがるこういったイベントは、実にさもしいものだとは思う。思うけれど、わたしみたいにふだんは文化的僻地でもっとずっとさもしい生活を送っている人間にとってみれば、さもしかろうが楽しい。楽しければ悪い気はしない、当然。でもさもしさにも(わたしの勝手な基準に照らせば)好ましいさもしさとそうでないさもしさがあって、文学フリマに参加することがどの程度のさもしさなのかは、ちょっとまだ解らない。
ただ、今回は颯子さんがヘンシューチョーとして、怠惰でいいかげんなわたしたちの舵をとってくれ、それぞれのがんばりをどうにかかたちにしてくれて、そのことには心底敬服&感謝!
そうそう、サコたんとグンちゃんからは、わたしの書いたものが気持ち悪いとダメを出される。ショック死。
AM00:00:00からはじめてもたいてい間に合うよ
2009年12月13日 ひびのあれかこれか
文学フリマに参加した。先週。前日にどうにか文学フリマ用の原稿をあげ、父の誕生日を祝うためにいつもは別々の場所に住んでいる両親とわたしの三人でワイングラスを傾けたら、睡眠不足と疲れがたたり、砂男に目潰しされたかのように眠くなってしまい、まずいなー明日会場に行けるかなーなんて思っていたらヘンシューチョーのサコたんから、印刷が終わらないので手伝いに来て欲しいと招集かかる。Sくんが先に来ており、じきにグンちゃんも登場するとのこと。〆切を大幅に遅れた手前断れず、大江戸線でサコたん家へ。電車を寝過ごして遅れる。着いたらサコたんから酒臭いと言われる。
当日のAM00:00:00、まだ本は一冊もできていない。表紙が印刷されているだけ。大人物サコたんは焦ってるんだかいないんだか、ノーメイクでおでこをテカテカさせながら、眉根を寄せ難しい顔をしているが、特に手は動いていない。キャーヤバイ。ドタバタしながら手分けしてレイアウト変更したり元にもどしたり両面印刷したりホッチキス止めしたり袋詰めしたり絵を描いたり踊ったり吐いたりしているうちに夜は明け、どうにかはじめの一冊が完成したときの喜びといったら!
それからわたしは体力の限界により、途中でリタイア。確か朝の7時くらい。文学フリマのブースが、ふたり座ったら満杯なので、サコたんとグンちゃんが先に向かい、わたしは昼過ぎから会場入りすることに。Sくんは開催地の蒲田に深い因縁があるとかで、先に帰った。お疲れ! と彼を送ったあと、サコたん家のリビングのソファーに倒れ込んで、一秒後には記憶を失った。グンちゃんの、わたしのろいから先にお風呂入っていいですか~というまったり声が聞こえたような気がする。確かに、とわたしは思い、7人の小人×7=49人の小人が大挙して押し寄せ何をするにつけのんびりやのグンちゃんの向こう脛を蹴り付ける夢を見る……
続きはあとで。
当日のAM00:00:00、まだ本は一冊もできていない。表紙が印刷されているだけ。大人物サコたんは焦ってるんだかいないんだか、ノーメイクでおでこをテカテカさせながら、眉根を寄せ難しい顔をしているが、特に手は動いていない。キャーヤバイ。ドタバタしながら手分けしてレイアウト変更したり元にもどしたり両面印刷したりホッチキス止めしたり袋詰めしたり絵を描いたり踊ったり吐いたりしているうちに夜は明け、どうにかはじめの一冊が完成したときの喜びといったら!
それからわたしは体力の限界により、途中でリタイア。確か朝の7時くらい。文学フリマのブースが、ふたり座ったら満杯なので、サコたんとグンちゃんが先に向かい、わたしは昼過ぎから会場入りすることに。Sくんは開催地の蒲田に深い因縁があるとかで、先に帰った。お疲れ! と彼を送ったあと、サコたん家のリビングのソファーに倒れ込んで、一秒後には記憶を失った。グンちゃんの、わたしのろいから先にお風呂入っていいですか~というまったり声が聞こえたような気がする。確かに、とわたしは思い、7人の小人×7=49人の小人が大挙して押し寄せ何をするにつけのんびりやのグンちゃんの向こう脛を蹴り付ける夢を見る……
続きはあとで。
あちきも文学フリマに参加させてもらう予定なんですが、明後日なのにじぇんじぇんやばいのでさこたんにぶん殴られるかもしれません。そしたらGOMEN! そういえば長渕剛にも「女よ、GOMEN」という曲がありますね、あら奇遇、わたしとあなたはきっと深いところで繋がっているのね、さあ踊りませんか曲に合わせて。
「夢と暮らしのゴッタ返しの ざわめきの真ん中で
俺には やっぱり お前しかいなかった
女よ GOMEN GOMEN!
女よ GOMEN GOMEN!」
お前しかいないだなんて、嬉し、嬉し、嬉しくない! グンちゃんは自分のことをアナイス・ニン、ケイト・ブッシュ、レディー・ガガと称して恥じることがない! 生きていることはとめどない悲しみ!
「夢と暮らしのゴッタ返しの ざわめきの真ん中で
俺には やっぱり お前しかいなかった
女よ GOMEN GOMEN!
女よ GOMEN GOMEN!」
お前しかいないだなんて、嬉し、嬉し、嬉しくない! グンちゃんは自分のことをアナイス・ニン、ケイト・ブッシュ、レディー・ガガと称して恥じることがない! 生きていることはとめどない悲しみ!
まっすぐに地獄に
2009年11月16日 書かれえぬ書物の焚焼 コメント (2)
こんばんは! さようなら! ともだおれ!
もともとクラッシュは好きだったんだけど、図書館にあって気紛れに借りたライブ盤に収録されていた「Straight To Hell」を聴いて、ここまでかっこいいとは思わず、もう何だか胸がドキドキしてしまった。
Lily Allenのカヴァーも泣けるし、youtubeにある別バージョンのライブも震えちゃうし、サイコーサイコーとのぼせて友人にもその感動を伝えようと試みたら、でもいまここで聴く必然のない昔の曲を唐突にいいとか言われてもこっちとしては反応に困るよね正直、たとえばわたしが今更つの丸の「モンモンモン」ってマンガメチャ面白いよ読んでみて、とか言われても読む気しないでしょ、と冷や水を浴びせられ、それが余りにも全くその通りな、圧倒的に正しい意見だったので何も言い返せず、そうか言うなればわたしはアルコールに酔った帰り途に人恋しくなって都合いい相手に電話をするような、そんなしょうもないことをしたのだなあと一頻り反省したのだが、やっぱり誰かに伝えたい、どうすればいいのこんな気持ち、悲しみが雪のようにつもる夜に……と身悶えした挙句(関係ないですが「モンモンモン」の主人公モンモンの弟モンチャックは、高倉健の健と菅原文太の太をとって悶着と命名されたそうです)、ここにひっそりと書いておくことにしました。
わたしの愛するあなた、誰かは存じ上げませんが、機会があったら聴いてみてください。
もともとクラッシュは好きだったんだけど、図書館にあって気紛れに借りたライブ盤に収録されていた「Straight To Hell」を聴いて、ここまでかっこいいとは思わず、もう何だか胸がドキドキしてしまった。
Lily Allenのカヴァーも泣けるし、youtubeにある別バージョンのライブも震えちゃうし、サイコーサイコーとのぼせて友人にもその感動を伝えようと試みたら、でもいまここで聴く必然のない昔の曲を唐突にいいとか言われてもこっちとしては反応に困るよね正直、たとえばわたしが今更つの丸の「モンモンモン」ってマンガメチャ面白いよ読んでみて、とか言われても読む気しないでしょ、と冷や水を浴びせられ、それが余りにも全くその通りな、圧倒的に正しい意見だったので何も言い返せず、そうか言うなればわたしはアルコールに酔った帰り途に人恋しくなって都合いい相手に電話をするような、そんなしょうもないことをしたのだなあと一頻り反省したのだが、やっぱり誰かに伝えたい、どうすればいいのこんな気持ち、悲しみが雪のようにつもる夜に……と身悶えした挙句(関係ないですが「モンモンモン」の主人公モンモンの弟モンチャックは、高倉健の健と菅原文太の太をとって悶着と命名されたそうです)、ここにひっそりと書いておくことにしました。
わたしの愛するあなた、誰かは存じ上げませんが、機会があったら聴いてみてください。
記憶ほど、とわたしは思う。記憶ほど、と。
(それで、何がわたしをつくったのだろう?)
思い出したりはしない。思い出すことなどできない。能力がわたしにはない。とおく、わたしの心の濡れた部分。わたしはいつもひとりで、区立図書館で受験勉強にいそしむふりをしつつ、真新しい紙のこすれる音に心をふるわせていた。全体としてはしずかと形容できる空気のなかで、さわさわと事物の囁きが充ちていて、水を張った洗面器のように適度な緊張感がわたしの皮膚を撫でるのが気持ち良かった。言葉はわたしのなかに降り積み古い本は黴にまみれてチョコレートみたいなにおいがした。今日も、ナンシー関に似ている司書がカウンターで爪をいじっている。わたしがリクエストして、書庫の奥底から彼女が億劫そうに抱えてきた書物たち。誰にもページを捲られた形跡がなかったりすると、妙に誇らしい。次にいつかページを開くひとのために、気に入った箇所に栞を挟んでおいてあげよう。ねえ、ヒースクリフ。
いびつに膨らんだかばんを肩に、乗り換え駅にあるタワーレコードへ向かう。ハードカバーの角が始終わたしの脇をつっつく。わたしはいつだってひとりだったし、だからタワーレコードでも、わたしのために音楽は鳴っていた(だからくるりとかスーパーカーに出会った)。だから視聴用のヘッドフォンを支える手に力を込めた。気に入ったCDに出会ったときは嬉しい気持ち。それをレジに持っていくときは勇ましい気持ち。だからひとりだったし、次の日も、そのまた次の日もひとりだった。
休みには渋谷の、ひとの少ない方面にある坂の途中の映画館へ。映画はたいてい、よく解らない。それでも構わなかった。観ているうちに、観ている自分自身のことをまったく忘れ、どこにもわたしを定められないような時間があって、それが好きだった。映画館から抜けだし坂をくだっていくと、歩道への陽の射し方が映画みたいで、坂を降りきったところにある喫茶店に、いつもは入らないのに入ったりした。映画の感想をノートに書く。水を何杯もおかわりするのでトイレに何回も行く。ひとりだったし、ひとりだった。ともだちといても、家族といても、やがて出会う彼といても。バカみたいだけど。だから、だから。
それらの思い出によって、いまのわたしはつくられた。そう思いたかった。うちふるえる心だけ、蕾の苦みだけ、自転車のペダルをこぎだす気持ち、何かをはじめようとする瞬間の気持ち、曲名のわからない歌のフレーズを口ずさんだり、時間をかけて書いた手紙に封をしたり、乗り慣れていない都バスでちょっと遠くへ、わたしと同じようにひとりでひとりをぼんやりと過ごしている誰かさんの窓辺を想像したり、チェーホフを読んで泣いちゃったり、絶望的に狭い世界のなかで生きていることを知らなかった、どれだけ不自由な世界にあっても、わたしの心だけは自由でありえるような気がした、神聖で不可侵な、わたしの心。それらだけが、わたしのやわらかで枢要な部分をつくったのだと。
ほんとうに、そうだったらどれだけ良かったか。でもきっとそうじゃなかった。ひび割れて剥落したわたしの心をのぞきこんだところで、大切な思い出たちはもうとっくに息をしていなかった(だから大切ですらないのだ、もう)。こうやってナルシシズムとともに、記憶の改竄を加えて想起しないかぎり、絶対に甦ることはないようだった。無造作に積み重ねられた死体みたい。そして、こうしてわたしの辿っているつまらない生は、それらの死体とはまるきり縁がない。死体が焼き払われたとしても、灰になったことにさえ気が付かないかもしれない。バカみたい。
でも、だからそれがどうしたっていうんだろう。それ以前に、死体にすらなれない、確かに生きたという証拠すら残らない、その意味で未生の、厚みのない日々の生活が記憶する前から圧殺されていて、大切な思い出たちもほんとうはそうあるべきなのだ。わたしはわたしの生活を憎んでいるけれど、でも、だからそれがどうしたっていうんだろう。いずれ、わたしは憎しみを忘れ、忘れたことも忘れ、憎しみをメランコリックに追憶したあと、できごとをまるごと忘れる。できごとは、起こらなかったことになる。わたしの心は渇いている。たまに雨が降ることはある。灰が降ることもある。それでも、渇いている。強いられた残業を終えて、頭が痛くなるほど寝る。それでも死にはしない。心が渇いていても死にはしない。何もわたしをつくったりはしない。できごとなど、起こりはしない。だから。さようなら。目に見えない幽霊、泡立て器、痛いのは嫌だという気持ち、視神経、優しさの奥歯にすりつぶされるもの、カスタードクリームと骨、わたしの心!
(それで、何がわたしをつくったのだろう?)
思い出したりはしない。思い出すことなどできない。能力がわたしにはない。とおく、わたしの心の濡れた部分。わたしはいつもひとりで、区立図書館で受験勉強にいそしむふりをしつつ、真新しい紙のこすれる音に心をふるわせていた。全体としてはしずかと形容できる空気のなかで、さわさわと事物の囁きが充ちていて、水を張った洗面器のように適度な緊張感がわたしの皮膚を撫でるのが気持ち良かった。言葉はわたしのなかに降り積み古い本は黴にまみれてチョコレートみたいなにおいがした。今日も、ナンシー関に似ている司書がカウンターで爪をいじっている。わたしがリクエストして、書庫の奥底から彼女が億劫そうに抱えてきた書物たち。誰にもページを捲られた形跡がなかったりすると、妙に誇らしい。次にいつかページを開くひとのために、気に入った箇所に栞を挟んでおいてあげよう。ねえ、ヒースクリフ。
いびつに膨らんだかばんを肩に、乗り換え駅にあるタワーレコードへ向かう。ハードカバーの角が始終わたしの脇をつっつく。わたしはいつだってひとりだったし、だからタワーレコードでも、わたしのために音楽は鳴っていた(だからくるりとかスーパーカーに出会った)。だから視聴用のヘッドフォンを支える手に力を込めた。気に入ったCDに出会ったときは嬉しい気持ち。それをレジに持っていくときは勇ましい気持ち。だからひとりだったし、次の日も、そのまた次の日もひとりだった。
休みには渋谷の、ひとの少ない方面にある坂の途中の映画館へ。映画はたいてい、よく解らない。それでも構わなかった。観ているうちに、観ている自分自身のことをまったく忘れ、どこにもわたしを定められないような時間があって、それが好きだった。映画館から抜けだし坂をくだっていくと、歩道への陽の射し方が映画みたいで、坂を降りきったところにある喫茶店に、いつもは入らないのに入ったりした。映画の感想をノートに書く。水を何杯もおかわりするのでトイレに何回も行く。ひとりだったし、ひとりだった。ともだちといても、家族といても、やがて出会う彼といても。バカみたいだけど。だから、だから。
それらの思い出によって、いまのわたしはつくられた。そう思いたかった。うちふるえる心だけ、蕾の苦みだけ、自転車のペダルをこぎだす気持ち、何かをはじめようとする瞬間の気持ち、曲名のわからない歌のフレーズを口ずさんだり、時間をかけて書いた手紙に封をしたり、乗り慣れていない都バスでちょっと遠くへ、わたしと同じようにひとりでひとりをぼんやりと過ごしている誰かさんの窓辺を想像したり、チェーホフを読んで泣いちゃったり、絶望的に狭い世界のなかで生きていることを知らなかった、どれだけ不自由な世界にあっても、わたしの心だけは自由でありえるような気がした、神聖で不可侵な、わたしの心。それらだけが、わたしのやわらかで枢要な部分をつくったのだと。
ほんとうに、そうだったらどれだけ良かったか。でもきっとそうじゃなかった。ひび割れて剥落したわたしの心をのぞきこんだところで、大切な思い出たちはもうとっくに息をしていなかった(だから大切ですらないのだ、もう)。こうやってナルシシズムとともに、記憶の改竄を加えて想起しないかぎり、絶対に甦ることはないようだった。無造作に積み重ねられた死体みたい。そして、こうしてわたしの辿っているつまらない生は、それらの死体とはまるきり縁がない。死体が焼き払われたとしても、灰になったことにさえ気が付かないかもしれない。バカみたい。
でも、だからそれがどうしたっていうんだろう。それ以前に、死体にすらなれない、確かに生きたという証拠すら残らない、その意味で未生の、厚みのない日々の生活が記憶する前から圧殺されていて、大切な思い出たちもほんとうはそうあるべきなのだ。わたしはわたしの生活を憎んでいるけれど、でも、だからそれがどうしたっていうんだろう。いずれ、わたしは憎しみを忘れ、忘れたことも忘れ、憎しみをメランコリックに追憶したあと、できごとをまるごと忘れる。できごとは、起こらなかったことになる。わたしの心は渇いている。たまに雨が降ることはある。灰が降ることもある。それでも、渇いている。強いられた残業を終えて、頭が痛くなるほど寝る。それでも死にはしない。心が渇いていても死にはしない。何もわたしをつくったりはしない。できごとなど、起こりはしない。だから。さようなら。目に見えない幽霊、泡立て器、痛いのは嫌だという気持ち、視神経、優しさの奥歯にすりつぶされるもの、カスタードクリームと骨、わたしの心!
ラクダに乗りに
2008年7月20日 われはうたえどもはっぽうやぶれ コメント (5)わたしたちは調子に乗って おさなごを殴りつけたり刺し貫いたりして
命を損なう行為その他について
話をしている
(飛行機がギューンと空の低いところを過ぎ、
高いところを目に見えないものがゆき過ぎる)
そういうこと、赦せないよね、とあなたはわたしにいってもらいたそうだったから、
そういうこと、赦せないよね、とわたしはいう。
ぼくも同感だ、とあなたもいう。でも
・実は僕もこどもをぶち殺したいと思うことがあるんだ。
・日本語がわからないからきみの話もわからない。
・そんな話はさておきラクダにでも乗りに行かない?
おさなごと一緒に
ふたこぶのあいだにうまくはさまって、
アフガニスタンの荒野をはるばると、
ラクダのまぶたは二重でかわいいけど、
やっぱりおさなごは怖がるかもしれない(だって2mくらいあるんだもの、グラグラ揺れるし)、どこに向かうのか、だれにも わからないし 怖いけど(怖くなんて ないよ!)
だとかいってくれても、ちっとも構わなかったんだけど。
あなたは――窓際の鉢のつちを掘り返し、植物の根を埋め、
わたしは――それを見ていたかった
時折――いつも。
(あるいは何もかも とばっちり?)
そうね。
飛行機の残響、肌寒さが
わたしたちと話をしているのね。
ラクダに乗って(調子に乗ったりしないで)
おさなごと一緒に
ラクダとおなじ目線でわたしたちを見渡せば
見えないものが見えるかもしれない
赦せないことが赦せるのかもしれない
でもきっと生涯、乗らない。
命を損なう行為その他について
話をしている
(飛行機がギューンと空の低いところを過ぎ、
高いところを目に見えないものがゆき過ぎる)
そういうこと、赦せないよね、とあなたはわたしにいってもらいたそうだったから、
そういうこと、赦せないよね、とわたしはいう。
ぼくも同感だ、とあなたもいう。でも
・実は僕もこどもをぶち殺したいと思うことがあるんだ。
・日本語がわからないからきみの話もわからない。
・そんな話はさておきラクダにでも乗りに行かない?
おさなごと一緒に
ふたこぶのあいだにうまくはさまって、
アフガニスタンの荒野をはるばると、
ラクダのまぶたは二重でかわいいけど、
やっぱりおさなごは怖がるかもしれない(だって2mくらいあるんだもの、グラグラ揺れるし)、どこに向かうのか、だれにも わからないし 怖いけど(怖くなんて ないよ!)
だとかいってくれても、ちっとも構わなかったんだけど。
あなたは――窓際の鉢のつちを掘り返し、植物の根を埋め、
わたしは――それを見ていたかった
時折――いつも。
(あるいは何もかも とばっちり?)
そうね。
飛行機の残響、肌寒さが
わたしたちと話をしているのね。
ラクダに乗って(調子に乗ったりしないで)
おさなごと一緒に
ラクダとおなじ目線でわたしたちを見渡せば
見えないものが見えるかもしれない
赦せないことが赦せるのかもしれない
でもきっと生涯、乗らない。
わたしたちの教室とは別の棟にある図書室に足を向けるときには、用心が必要だった、学年の中心的なグループが図書室のベランダをたまり場にしていて、本を借りるのを彼/女らには見られたくなかったから。本の虫だとかガリ勉に見られたくなくて、普段だって無理をしてメガネをかけないようにしていたし、Hさんと小説を貸し借りするのだって、ふたりで相談しあって5時限目が終わったあとの休み時間に空き教室で渡しあうほど念入りだったから(Hさんはわたしにゲド戦記や宮沢賢治、鏡の国のアリスなどを貸してくれた。わたしは一貫性無く森瑶子やロードス島戦記、それになぜか清水義範なんかを貸した気がする。Hさんはわたしと違って、つくづく文学少女だった)。
世界は狭く、昼休み、バスケットコートを眺めることのできる、教室の窓の下にせりだした露台というか、縁側というか、に友人たちとすわりこみ、小さなことにことさら騒ぎ立てながら、まわりの視線を気にしてばかりいた。わたしはバスケットボールに興じる男子のうちのひとりに目を奪われていたのだが、それを見透かされたくなくて、その向こうのテニスコートの方へ目を向けているふりをしてばかりいた。おかげで、見るともなしに見る風を装うくせがついた。だれもわたしの視線の行方など気にもしなかったろうに。
それで、当時好んで読んでいた小説の登場人物に似ていたのだ、バスケットボールばかりしていた彼は。サリンジャーの「笑い男」に出てくる「酋長」というあだ名の大学生に。それを伝えたくて、彼の机のうえに小説を置きっぱなしにして、彼が訝しげに小説を手にしたら、あ、ごめんその本わたしの、と声をかけ、それから軽く思い出したように、そういえばこの本に出てくる人、Iくんに似てるんだよ、ちょっと読んでみない?なんて言いたかった。彼のことを“酋長”と呼びたかった。そんなことを夢想していた、昼休みも、授業時間中も、部活で身体を動かしながらも。「笑い男」は、国語の先生にすすめたらとても気に入ってくれたから、わたしの好きなひとみんなにすすめたい気持ちだったのだ。でもわたしと先生(と、もしかしたらHさん)以外、この小説の良さは解らないわきっと、とも思っていた。でも彼だったら解るかも。解らなくても、きっと興味は示してくれる、国語の教科書に載っていた谷川俊太郎の詩が好きだって言ってたし、とも。バスケットボールを終えて、頭にタオルを巻いた格好で教室に帰ってきた彼を、見るともなしに見ながら。
話が逸れた。わたしが書きたいのは、図書室での話。
そういうわけで、図書室へ出向くのは一種の冒険だったのだが、あるとき、その根拠は忘れてしまったのだけれど、彼/女らがいないとの確信を持って、図書室に本の返却に行ったのだった。そうしたら、運悪く彼/女らに出くわしてしまったのだ。おー、なんて声をかけられ、どんな本とか借りてんの?と問われ、わたしはサガンの文庫を上にして見せたはずだ(わたしが借りていたのは二冊で、サガンの下にあったのは阿刀田高という作家の、『アラビアンナイトを楽しむために』だった。この本には幾つか性描写があった。わたしが借りたのは三度目だった。その本の存在を彼/女らから隠すことができたことで、わたしはのちのち、とっさの機転をみずから褒めたが、彼/女らが本の内容を知っていたはずも、知ろうとするはずもなかったのだから、どちらを上にしてもまったく同じことだったろう)。わたしの顔は赤かったと思う。そのとき顔が熱くなったことを、今でも思い出せるから。そうだ、わたしはそのとき上下ジャージ姿だった、彼/女らは下だけ制服を着ていて、その対比のせいもあって、恥ずかしくて死にそうだった。できればわたしだって制服姿でいたかった、でも目立つことにも耐えられなかった。
それで。ひとりの女子が、わたしの近くに寄ってこようとして、ベランダにじかに座っている男子のことをまたいだ。男子が身体をかたむけて、その女子のスカートのなかをのぞきこむようなそぶりをした。それに対してヤダーと彼女は反応して飛び退き、男子に向き直ると、軽くあしらうようにスカートをおさえたのだ。その姿がわたしの心に焼き付いて離れなかった。わたしは自分が所在無く立ち尽くしていることに気がついた。もうわたしの手にしている小説の話題は殺されていた、わたしもろとも。わたしが持っていない秘密を、その女子はスカートのなかにひそませていて、それを自在にとりだしては、秘密を共有しているもの同士で楽しむことができるのだ。わたしにはそんな秘密はない。スカートの襞もない。本しかない。足首のあたりがキュッと絞ってある、世界でも有数の滑稽さをほこるデザインのジャージと、それに身をつつまれるに相応しい外見しかない。
そのあと、トイレに駆け込み、ひとつだけある洋式便器に座りこむと、ひたすら泣けてきて、涙が止まらなかったことを憶えている。それから少し落ち着いて、ちり紙で鼻をかみながら、「笑い男」を“酋長”に読ませることを夢想するのは止めよう、と考えた、次いでぼんやりと、高校生になればみんなはなればなれになるし、わたしもわたしを忘れるだろう、と。そうしたら、いつか、夢想を盾に世界から身を守らなくてもすむようになるだろうし、わたしは自分のことを愛せるようになるだろう、いつか、と。
世界は狭く、昼休み、バスケットコートを眺めることのできる、教室の窓の下にせりだした露台というか、縁側というか、に友人たちとすわりこみ、小さなことにことさら騒ぎ立てながら、まわりの視線を気にしてばかりいた。わたしはバスケットボールに興じる男子のうちのひとりに目を奪われていたのだが、それを見透かされたくなくて、その向こうのテニスコートの方へ目を向けているふりをしてばかりいた。おかげで、見るともなしに見る風を装うくせがついた。だれもわたしの視線の行方など気にもしなかったろうに。
それで、当時好んで読んでいた小説の登場人物に似ていたのだ、バスケットボールばかりしていた彼は。サリンジャーの「笑い男」に出てくる「酋長」というあだ名の大学生に。それを伝えたくて、彼の机のうえに小説を置きっぱなしにして、彼が訝しげに小説を手にしたら、あ、ごめんその本わたしの、と声をかけ、それから軽く思い出したように、そういえばこの本に出てくる人、Iくんに似てるんだよ、ちょっと読んでみない?なんて言いたかった。彼のことを“酋長”と呼びたかった。そんなことを夢想していた、昼休みも、授業時間中も、部活で身体を動かしながらも。「笑い男」は、国語の先生にすすめたらとても気に入ってくれたから、わたしの好きなひとみんなにすすめたい気持ちだったのだ。でもわたしと先生(と、もしかしたらHさん)以外、この小説の良さは解らないわきっと、とも思っていた。でも彼だったら解るかも。解らなくても、きっと興味は示してくれる、国語の教科書に載っていた谷川俊太郎の詩が好きだって言ってたし、とも。バスケットボールを終えて、頭にタオルを巻いた格好で教室に帰ってきた彼を、見るともなしに見ながら。
話が逸れた。わたしが書きたいのは、図書室での話。
そういうわけで、図書室へ出向くのは一種の冒険だったのだが、あるとき、その根拠は忘れてしまったのだけれど、彼/女らがいないとの確信を持って、図書室に本の返却に行ったのだった。そうしたら、運悪く彼/女らに出くわしてしまったのだ。おー、なんて声をかけられ、どんな本とか借りてんの?と問われ、わたしはサガンの文庫を上にして見せたはずだ(わたしが借りていたのは二冊で、サガンの下にあったのは阿刀田高という作家の、『アラビアンナイトを楽しむために』だった。この本には幾つか性描写があった。わたしが借りたのは三度目だった。その本の存在を彼/女らから隠すことができたことで、わたしはのちのち、とっさの機転をみずから褒めたが、彼/女らが本の内容を知っていたはずも、知ろうとするはずもなかったのだから、どちらを上にしてもまったく同じことだったろう)。わたしの顔は赤かったと思う。そのとき顔が熱くなったことを、今でも思い出せるから。そうだ、わたしはそのとき上下ジャージ姿だった、彼/女らは下だけ制服を着ていて、その対比のせいもあって、恥ずかしくて死にそうだった。できればわたしだって制服姿でいたかった、でも目立つことにも耐えられなかった。
それで。ひとりの女子が、わたしの近くに寄ってこようとして、ベランダにじかに座っている男子のことをまたいだ。男子が身体をかたむけて、その女子のスカートのなかをのぞきこむようなそぶりをした。それに対してヤダーと彼女は反応して飛び退き、男子に向き直ると、軽くあしらうようにスカートをおさえたのだ。その姿がわたしの心に焼き付いて離れなかった。わたしは自分が所在無く立ち尽くしていることに気がついた。もうわたしの手にしている小説の話題は殺されていた、わたしもろとも。わたしが持っていない秘密を、その女子はスカートのなかにひそませていて、それを自在にとりだしては、秘密を共有しているもの同士で楽しむことができるのだ。わたしにはそんな秘密はない。スカートの襞もない。本しかない。足首のあたりがキュッと絞ってある、世界でも有数の滑稽さをほこるデザインのジャージと、それに身をつつまれるに相応しい外見しかない。
そのあと、トイレに駆け込み、ひとつだけある洋式便器に座りこむと、ひたすら泣けてきて、涙が止まらなかったことを憶えている。それから少し落ち着いて、ちり紙で鼻をかみながら、「笑い男」を“酋長”に読ませることを夢想するのは止めよう、と考えた、次いでぼんやりと、高校生になればみんなはなればなれになるし、わたしもわたしを忘れるだろう、と。そうしたら、いつか、夢想を盾に世界から身を守らなくてもすむようになるだろうし、わたしは自分のことを愛せるようになるだろう、いつか、と。
サッド・ヴァケイション
2007年10月4日 愛の未完成
青山真治の監督した『Sad Vacation』を颯子さんと観た。はじめの、浅野忠信が中国人の孤児を背負い、自転車を必死にこいで逃げるシーンがものすごく良くて、これは期待できるのでは、と思ったのだけれど、画面はともかく、内容に激しく違和感を覚え、結局あまり楽しむことができなかった。
というのもこの作品は、中上健次の物語を反転させて、「浜村龍造」の位置に石田えり演じる母親(間宮千代子)が収まるという――青山真治本人の言葉を借りれば「『枯木灘』は父親との葛藤を描いていましたが、この『サッドヴァケイション』では母親との葛藤を描いています」という――構図を持っているのだが、つまり、「父性」ではなく「母性」こそが、ひとがそこから逃れようとして逃れることのできない、人間存在を規定付ける超越項(運命と言い換えてもいいが)としてあるのだ、という認識のもと、まがまがしいともいえる「母性」を描き出そうと試みているのだが、はっきりいって、その試みがまったく失敗に終わっているように思えたのだ。
巷ではこの作品について、石田えりの演技がすばらしい、女っておそろしい、だけど強い、みたいな10000年も昔から口にされてきたクリシェな感想があふれているようだけれど、勘違いもはなはだしいとわたしは思う。この作品で描かれる「母性」とは、「母性」の皮をかぶった「父性」でしかないからだ。
劇中、浅野忠信演じる白石健次が、種違い(腹違いではない)の弟を撲殺してしまうという事件が起こるのだが、それに対して千代子は悲しみもせず、刑務所に入ってしまった健次の恋人の胎内に、ふたりのこどもがいることが判明すると喜び勇んで、葬式当日に「過去は忘れて、産まれてくる子のことだけ考えましょう」というようなことを口走り、逆上した気の弱い再婚相手の夫(間宮繁輝)からぶたれてしまう。このあと、千代子が「ふん、男のひとは好きにしたらええんよ」などとのたまうために、ひとはそこに、外面的には平然を装っているが、辛いことがあると傍らのものに暴力を振るう強権的な(精神的に弱い)父、そのような父=男たちのふるまいにも、息子の死にもくじけない強い母、というような関係を読みとってしまうのかもしれないが、それは明らかにミスリーディングだろう。
ここで千代子は、端的に血の存続のことにしか興味がない。そして血を受け継ぐのにもっとも適している、長男(とその嫡子)にしか興味がない(次男のことはどうでもいいから悲しまないのだ)。くわえて、弟を殺害した健次を赦すことも、健次の恋人(と腹のなかのこども)を迎え入れることも、健次の庇護してきた知的に障害を持つ女性を養子にすることも、夫には何の相談もせずすべて彼女の一存で、勝手に決めてしまうのだ。これが、「母性」でありえるだろうか。
たとえばそれは、家―血の継承にのみ価値を見出し、一家のすべての権力を集中して保持していた、近代以前の武家社会における男たちと、どこまでも似てこないだろうか(そうではなく千代子が体現している「母性」はアナクロすぎてダメなのだ、という批判も他のところで読んだが、わたしはそのようには思わない。ひたすら血の存続に固執して息子の死にも頓着しない「母性」など、かつてもなかったように思うから)。
逆に、ここでの再婚相手の夫=繁輝は、そのような千代子の暴君ぶりを前にして、愛する息子の死を悲しむあまり、興奮して手をあげたりはするが、基本的には千代子の決断をまるごと受け容れてしまっている。前の夫のこどもである健次とは、血の繋がりもないというのに、しかも彼に実の息子を殺されたというのに、その事実すら(仕方なしに)受け容れてしまうのだ。そればかりかこの夫は、理不尽な状況を受忍しているのは何より自分なのに、妻こそが、すべてをまるごと受け容れる人間だと考えてすらいる。
この愚かさというか主体性を与えられていない感じもふくめて、この映画に「母性」が存在するとすれば、この夫のもと(と、おまけ的に宮?あおい)にのみあると、わたしは思う。
かようにこの映画では、母性と父性が本来あるべきところから入れ替わってしまっている。女性のもとに「父性」が、男のもとに「母性」があるだなんて、奇妙な見方だし、不自然だ、と思われるかもしれない。たしかに奇妙なのだ。だがそれはわたしの見方のせいではなく、青山真治が、「母性」を描こうとしながらそこに「父性」を密輸入したせいにある。
要するに、この作品では、何ら構造的には反転がなされておらず、単に浜村龍造が千代子に「なった」だけなのだ。つまり石田えりは、女ではなく、男としてスクリーンに現れていたのだった。ひとはしかし、石田えりが女性であるという単純な事実に気をとられ、「父性」がそこにあってもそれを「母性」ととり違えてしまう。あるいは映画に付された、「すべてを包み込み美しく生きるゆるぎない女たちの物語」とかいうふざけたコピーのせいかもしれない。
もちろん、「父性」やら「母性」といったカテゴリーは、何らかの本質をそなえたものとしてあらかじめ存在しているわけではない。だが女性が演じたからといってそれが即ち「母性」になるわけでもないはずだ。そして青山真治が、中上健次が書いた「父性」に抵抗するものとして「母性」を扱おうとしたのであれば、何よりそれらのことに自覚的になるべきではなかったか。なぜなら、よくいわれるように、一見「母性」の独立した能力の発現、または「父性」へのカウンターパンチだと思われることが、実は「父性」のてのひらのうえ、「父性」の思惑のうちのできごとでしかないということがありうるから(「父性」の力はそれほどに強大で、だからこそ中上健次の小説のなかで、主人公秋幸はあのように苦しまねばならなかった)。結果、石田えり演じる千代子は「父性」のいびつな体現者にしかなれなかったのであった。
というわけで全体、不満だったのだが、颯子さんも不満足そうにしていたのでよかった。青山真治は女性嫌いで女性の趣味も悪いが、才能はあるのでどんどん作品を作ってほしい、というがふたりの共通の認識である。映画のあとにふたりで牛タンを食べたのだけれど、わたしよりも痩せている彼女が、わたしの皿の肉をもの欲しそうに見つめているので、食べていいよ、とすすめると嬉しそうにバクバク食べて、見咎めたわけでもないのに、今日は朝からバクバクほとんど何もバクバク食べてなくってがっついてごめんなさいバクバクと言い訳していて、ひさしぶりに会った彼女はやっぱりとてもキュートでした。
(※文中の青山真治の言葉は
http://eiga.com/special/show/1294_1 より引用)
というのもこの作品は、中上健次の物語を反転させて、「浜村龍造」の位置に石田えり演じる母親(間宮千代子)が収まるという――青山真治本人の言葉を借りれば「『枯木灘』は父親との葛藤を描いていましたが、この『サッドヴァケイション』では母親との葛藤を描いています」という――構図を持っているのだが、つまり、「父性」ではなく「母性」こそが、ひとがそこから逃れようとして逃れることのできない、人間存在を規定付ける超越項(運命と言い換えてもいいが)としてあるのだ、という認識のもと、まがまがしいともいえる「母性」を描き出そうと試みているのだが、はっきりいって、その試みがまったく失敗に終わっているように思えたのだ。
巷ではこの作品について、石田えりの演技がすばらしい、女っておそろしい、だけど強い、みたいな10000年も昔から口にされてきたクリシェな感想があふれているようだけれど、勘違いもはなはだしいとわたしは思う。この作品で描かれる「母性」とは、「母性」の皮をかぶった「父性」でしかないからだ。
劇中、浅野忠信演じる白石健次が、種違い(腹違いではない)の弟を撲殺してしまうという事件が起こるのだが、それに対して千代子は悲しみもせず、刑務所に入ってしまった健次の恋人の胎内に、ふたりのこどもがいることが判明すると喜び勇んで、葬式当日に「過去は忘れて、産まれてくる子のことだけ考えましょう」というようなことを口走り、逆上した気の弱い再婚相手の夫(間宮繁輝)からぶたれてしまう。このあと、千代子が「ふん、男のひとは好きにしたらええんよ」などとのたまうために、ひとはそこに、外面的には平然を装っているが、辛いことがあると傍らのものに暴力を振るう強権的な(精神的に弱い)父、そのような父=男たちのふるまいにも、息子の死にもくじけない強い母、というような関係を読みとってしまうのかもしれないが、それは明らかにミスリーディングだろう。
ここで千代子は、端的に血の存続のことにしか興味がない。そして血を受け継ぐのにもっとも適している、長男(とその嫡子)にしか興味がない(次男のことはどうでもいいから悲しまないのだ)。くわえて、弟を殺害した健次を赦すことも、健次の恋人(と腹のなかのこども)を迎え入れることも、健次の庇護してきた知的に障害を持つ女性を養子にすることも、夫には何の相談もせずすべて彼女の一存で、勝手に決めてしまうのだ。これが、「母性」でありえるだろうか。
たとえばそれは、家―血の継承にのみ価値を見出し、一家のすべての権力を集中して保持していた、近代以前の武家社会における男たちと、どこまでも似てこないだろうか(そうではなく千代子が体現している「母性」はアナクロすぎてダメなのだ、という批判も他のところで読んだが、わたしはそのようには思わない。ひたすら血の存続に固執して息子の死にも頓着しない「母性」など、かつてもなかったように思うから)。
逆に、ここでの再婚相手の夫=繁輝は、そのような千代子の暴君ぶりを前にして、愛する息子の死を悲しむあまり、興奮して手をあげたりはするが、基本的には千代子の決断をまるごと受け容れてしまっている。前の夫のこどもである健次とは、血の繋がりもないというのに、しかも彼に実の息子を殺されたというのに、その事実すら(仕方なしに)受け容れてしまうのだ。そればかりかこの夫は、理不尽な状況を受忍しているのは何より自分なのに、妻こそが、すべてをまるごと受け容れる人間だと考えてすらいる。
この愚かさというか主体性を与えられていない感じもふくめて、この映画に「母性」が存在するとすれば、この夫のもと(と、おまけ的に宮?あおい)にのみあると、わたしは思う。
かようにこの映画では、母性と父性が本来あるべきところから入れ替わってしまっている。女性のもとに「父性」が、男のもとに「母性」があるだなんて、奇妙な見方だし、不自然だ、と思われるかもしれない。たしかに奇妙なのだ。だがそれはわたしの見方のせいではなく、青山真治が、「母性」を描こうとしながらそこに「父性」を密輸入したせいにある。
要するに、この作品では、何ら構造的には反転がなされておらず、単に浜村龍造が千代子に「なった」だけなのだ。つまり石田えりは、女ではなく、男としてスクリーンに現れていたのだった。ひとはしかし、石田えりが女性であるという単純な事実に気をとられ、「父性」がそこにあってもそれを「母性」ととり違えてしまう。あるいは映画に付された、「すべてを包み込み美しく生きるゆるぎない女たちの物語」とかいうふざけたコピーのせいかもしれない。
もちろん、「父性」やら「母性」といったカテゴリーは、何らかの本質をそなえたものとしてあらかじめ存在しているわけではない。だが女性が演じたからといってそれが即ち「母性」になるわけでもないはずだ。そして青山真治が、中上健次が書いた「父性」に抵抗するものとして「母性」を扱おうとしたのであれば、何よりそれらのことに自覚的になるべきではなかったか。なぜなら、よくいわれるように、一見「母性」の独立した能力の発現、または「父性」へのカウンターパンチだと思われることが、実は「父性」のてのひらのうえ、「父性」の思惑のうちのできごとでしかないということがありうるから(「父性」の力はそれほどに強大で、だからこそ中上健次の小説のなかで、主人公秋幸はあのように苦しまねばならなかった)。結果、石田えり演じる千代子は「父性」のいびつな体現者にしかなれなかったのであった。
というわけで全体、不満だったのだが、颯子さんも不満足そうにしていたのでよかった。青山真治は女性嫌いで女性の趣味も悪いが、才能はあるのでどんどん作品を作ってほしい、というがふたりの共通の認識である。映画のあとにふたりで牛タンを食べたのだけれど、わたしよりも痩せている彼女が、わたしの皿の肉をもの欲しそうに見つめているので、食べていいよ、とすすめると嬉しそうにバクバク食べて、見咎めたわけでもないのに、今日は朝からバクバクほとんど何もバクバク食べてなくってがっついてごめんなさいバクバクと言い訳していて、ひさしぶりに会った彼女はやっぱりとてもキュートでした。
(※文中の青山真治の言葉は
http://eiga.com/special/show/1294_1 より引用)
またあらためて、と書いたのにまたもや間が開いて、もうじきに納骨。書こうと思ったこともあらかた忘れてしまった。いつもそう。
とはいっても、書こうと思ったことなんてそもそも大したことではなかった、あるいは、わたしが書く文章の未熟さのせいで、感傷や誇張から逃れることがかなわないのだとしたら、むしろ書かれない方がましだった。そうだ、叔父の亡骸を火葬場に送り出す前、めいめいが棺のまわりに集まって、思い思いに叔父に別れを告げていた。そのときに叔父の鼻の穴から、鼻毛がのぞいていたのだ。死化粧をほどこされていたにもかかわらず。わたしはそのことについて、誰にも話すことができなかったが、そのことを書くべきだっただろうか。だがこれもまた誇張に違いない。そうでなければ、悪趣味な感傷。またはその両方。というより、もう過ぎたこと。忘れてしまった。忘れてしまった。ららら。だれもかれも、死ぬべきだ。
とはいっても、書こうと思ったことなんてそもそも大したことではなかった、あるいは、わたしが書く文章の未熟さのせいで、感傷や誇張から逃れることがかなわないのだとしたら、むしろ書かれない方がましだった。そうだ、叔父の亡骸を火葬場に送り出す前、めいめいが棺のまわりに集まって、思い思いに叔父に別れを告げていた。そのときに叔父の鼻の穴から、鼻毛がのぞいていたのだ。死化粧をほどこされていたにもかかわらず。わたしはそのことについて、誰にも話すことができなかったが、そのことを書くべきだっただろうか。だがこれもまた誇張に違いない。そうでなければ、悪趣味な感傷。またはその両方。というより、もう過ぎたこと。忘れてしまった。忘れてしまった。ららら。だれもかれも、死ぬべきだ。